知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

どうでもいい話しかしたくない

本当にどうでもいい話しかしたくない。

話というのは大体二種類あって、人に話しやすい話と話しづらい話がある。このどうでもいい話というのはとても話しづらい話のことだ。といっても話しづらい話というのは好きな人の話とかエグい性癖の話とかではなく(むしろこれは大いにネタになる話しやすい話だ)、むしろどうでもよすぎて終わりがなくて、聞く側も困ってしまうような話だ。

どうでもいい話がしたい

季節の変わり目はいつもそうなのだけど、なんでもやたら綺麗に見えてしまって困るときがある。 今日見たコンクリ壁に蔦が這わせてあって緑の壁みたいにしていたのがかっこよかったんだけど、通り過ぎるときによく見たら養生テープで蔦が一本一本壁に張り付けてあったとか、工事で職場の外階段に出られなかったんだけど、それで工事のおっちゃんが外階段へのドアにメモを貼っていて、べつにきれいな字でもなかったんだけど、出ないでくださいの出という字だけがやたら大きくなっていたりとか、そういうオチなんてないけどなんとはない良さを検出した話の方が、これこれこうしたら物が売れたとか、成功したとか、悲しいとか嬉しいとかそういう結果がある話よりずっとヤバイし、そういうどうでもいいような話しかしたくないような気になっている。

文学も別にドラマチックでなくていい。ネタバレされててもいい。ネタバレが意味をなさない部分が一番いい。音楽なら平気で同じ曲何度も聞くし、そのたびに同じ歌詞で同じことが起こるわけだけど、だからといってネタバレしたからもう聞かないとかはないし。文でもそんな感じだ。

山の音 (新潮文庫)

山の音 (新潮文庫)

川端康成の山の音を読んだのだけど、それも結果やオチがないような話だから良かった。その本の中では、決定的な瞬間には主人公の老人は関われず、あとで終わってしまったような話ばかり聞く。関わったら関わったでろくな目には遭わず、老人になってさえそういうことは上手くやれない。そういう話なのだが描写がめちゃくちゃ良くて、仔犬がコロコロ転がっているあたりの描写や庭の木の話だけでも延々と読んでいられて、すごい。文豪だけあってそこらへんはよくわかっているのかもしれない。結果やオチのある話は確かに面白いんだけど、そうじゃない話にも面白さはちゃんとある。

どうでもいい話の速度

帰りの地下鉄の駅で、目の前でドアを閉めて電車が出ていったのだけど、そのあとをビニール袋が吸い込まれてついて行った。このときめっちゃヤバイな!風情だな!と思ったんだけど、この共感されなさそうだけどわかってほしい気持ちも、いま袋が飛んでったんだよーーー!!みたいに書いただけだとぜんぜん伝わらなくて、こう書いているあいだも伝わらないし、この「感じ」をほんとうのほんとうに伝えるには原稿用紙何枚必要なんだと書く前から途方に暮れてしまう。けれど分量を書けば伝わるという話ではなくて、分量を書いたときに、その分量分付き合ってきた読者の中に生まれる速度みたいなものが必要だという話だ。

小説を書いていて、ある文を直そうとしたら、その次の文とぜんぜんつながらなくなって、結局その文ごとごっそり消してしまったことがあるんだけど、多分なんにでも流れがあって、細切れにして直したり並べ替えたりできるようなことは大したことは言ってない。

短歌でも、57577の77を入れ替えたりとか、そういうことができる歌はそんなに良くない。しっかりした歌はなんらかの必然性があってそこに言葉を置いている。歌会の評でも、入れ替え可能そうな部分はここは動くねーと言ったりする。

喋り方にはそれぞれ速度があって、全てが必然性のなかにカチッとはまった時、文章に速度が出る。詩とかはやばい。あれは適当に書いているようにみえるときもあるけれど、その言葉選びが必然でしかないことに気づくと、イメージの羅列は速度でしかないものに変わっていく。

言葉そのままの意味のの速度に追いつかれるような意味なんて大したことがないんだ。私は吹き飛んでいく袋を見たとき最高の気分になったけれど、それを書き残す言葉の量が足りなかったのではなく、速度を持たせることができなかったから、きっとほんとうに袋が飛んでいったときのヤバさは伝わらない。

短歌とか俳句とか小説はただの書き言葉に比べて速度があって、起こった出来事のヤバさに追いすがれる語法だ。芭蕉とかすごい。古池や*1とかもう速度でしかない。蛙が飛び込むのやばいよ。自然ってやばいんだよ。しかも古池なんだよ???ちゃんとそれがわかってるからこその速度なんだよ。

ほんとうにどうでもいい話をしたい。もっと速度があればいいのだけど。

*1:古池や蛙飛び込む水の音

小説を書くと脳に良かった話

どうにもいろんなことが信じられなくて、例えば私は仕事でデザイナーとして暮らしているけど、世界のほとんどの色がRed Green Blue の3色の組み合わせで表現できるとかいうのが全然信じられない。

モニターで全ての色を表せるわけではないことははっきりしていて、例えばモニターの黒より暗い色は出せないことはすぐわかる。けれど写真を見て、同じものが映っていると認識できるぐらいには色はたくさん表現できてるわけで。

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そのRGBの組み合わせから選んでデザインみたいな事をしていると、世界に色はこれっぽちしかないんだろうか……みたいな気分に襲われる時がある。これで全部表せる!みたいな物が本当に信じられないのだ。*1

あとこの前カントを読んだんだけど、本当にこれがあのカントなのか、カントが書いた文章とおなじ意味のことがこれに書いてあるのか?やばくない?カントってもう死んでるんだぜ?何年経ったと思ってんの?いや偽物だと思っているわけではないけど、本当の本当に200年前に死んだ人の本が今でもめっちゃ読まれている!みたいなことは全然信用ならない。読んでいても本当にあのヤバイ哲学者のカントなのか?ってのがわからない。リアリティがないというより、体験としてわけがわからない。

家の壁の丈夫さも信じてないけれど、この前穴があいてしまって、たしかに家を建てることも破壊するもことができるなら、穴ぐらい開くだろうというのは当然なんだろうけれど、それでも穴が開くところを見るのは初めてだったので、世界に対する信頼は少し失われた。壁のようなものからさえ、世界に対する信頼が発生していたんだなと思う。

信じられなさすぎると人生に支障をきたす。

未来が信じられない若者ってやつは、30まで生きるということも信じられない。私は30で死ぬことすら信じられなくて、45とかまで生き延びてしまって野垂れ死にギリギリラインで苦しむんだろうな、早死できたらラッキーだけどそこまで自分はラッキーではない、ぐらいには思っていたし今でも少しそう思っているんだけど、まあどうなるかはわからない。

ただ保険とか貯金とかは、自分にマトモな未来が来ると信じていられるからできるもので、信じられなければ常にノーフューチャーだし月給取りになることも困難だ。若いうちはキツイけど出世するまで我慢する、とかもできない。

未来を信じていなければ人と約束もできなくなるし、そこまで来るとさすがに困るので、信じられなくても信じているふりをして生きるしかない。

そう、信じられないと大変なんだ。

けれど小説を書き始めてから、世界や時間を信じはじめた、というか、信じざるをえなくなった。

小説を書きはじめてよかったこと

物をよく見るようになる

短歌とかでもそうだけど、路上観察が捗る。好きなものを見るあたらしい視線ができるというか。

そういうときに言語化しておくと、言語に残ったものだけではあるけど、それを長いこと覚えておくことができる。

書き終えるために時間をかけることができる

小説は時間を描くことに適した形態だと思う。

小説に比べてかなり短い短歌とか俳句みたいなのは、断片のようなものを放り出すことで、否応なしにその人の記憶とか、そうなったときの感じみたいなものを引きずり出すことができる。そこから出てくるものはかなり読み手の記憶や経験に依存するので、好き嫌いとか、読める読めないの差が激しく出るのはそのせいかもしれない。

小説は、読むのにも書くのにも時間がかかるというその長さが、弱点でありいいところでもある。読むのに時間がかかるということは、読者の方の記憶になることができるということでもあるから。

登場人物のキャラが濃ければ、読者はその登場人物のことを覚えるだろうし、そいつのことを好きになったりすることまでできる。

長いと書くのは大変だけど、多分長さが小説を小説にしているし、小説が記憶になるということを、書く側も読む側も考えてみると面白いかもしれない。書いている人は、たとえ小説を書かずに洗濯物を干しているときでさえ、小説のことを考えれば小説の中の時間に居ることができる。

だから作り終えるまで時間がかかる作品で、なおかつ進んでいるのが見えるようなものはたぶん全体的に脳に良くて、書いているうちに世界や時間に対する信頼みたいなものができる。一日で書き終わるならまだしも、書き上げるのに一ヶ月かかるんだったら、一ヶ月は生きていたいと思うだろう。まあだからこそ、世界を信頼していないとなかなか手をつけられないのかもしれない。

小説をうまく書き始める方法

入門書

小説入門はこれが良かったけど、逆に書けなくなるかもしれない。そういうもののほうが良い入門書だとは思うけど。

書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

小説のストラテジー (ちくま文庫)

小説のストラテジー (ちくま文庫)

道具

私は原稿用紙を買ってそれで書いている。

コクヨ 原稿用紙A4横書き20×20罫色緑50枚入り ケ-75N

コクヨ 原稿用紙A4横書き20×20罫色緑50枚入り ケ-75N

これは横書き用のやつだけど、あえて縦に使っている。縦書き用のやつは真ん中に変な空白があって気持ち悪いんだよね。 万年筆での書き味もいままで触った紙で2番目ぐらいに良い。*2

原稿用紙だと、パソコンで書くときのように延々と修正するできない。できるのはちょっとした修正だけ、でなければ紙が真っ黒になってしまう。気に入らなければ書き直す。

よってできることは、捨てるか前に進むしかない。

私は人生で「小説書きてえ〜〜」となったときが何度かあったけれど、原稿用紙を導入した今回まで、一度もうまくいったことがなかった。原稿用紙はすごい。

多分手書きの方が性に合っていたんだと思う。PCのエディタの空白は切れ目がなくて辛かった。原稿用紙は400字書くたびにめくるという作業があって、これも脳にいい感じがする。手書きのほうが肩の運動にもなるし、作家みたいでかっこいい。PCに写すのはだるいけど……。

書いたもの

そういうことを考えながら色々書いた。わけわからないのもたくさんできたけど、同居人が出て来るこれはちょっとわけわかるし、時間を描けたような気がする(今の私は時間を信頼しているので、もっと書いてればもっとうまく書けるようになるような気すらしている!) 大した冒険はないが雨の中花火をするか迷ったりはする。

kakuyomu.jp

*1:文字でも、日本語は漢字があるからいいけど、アルファベット圏では26文字程度の文字を見て、これだけしか文字がないのか……と思ったりするんだろうか

*2:一番描き味がいいのはアピカのプロジェクトペーパーだと思う

低気圧のだるさに酸素は効く。けど流行らない理由もよくわかった話

低気圧のたびに死んでいるみなさま、お元気ですか?

低気圧ってのは季節にかかわらず来るしだるいしゲロ吐きそうだし眠いしで大変ですが、あんまり効く薬もないし仕事も別に休みにならないしで困るよね。運動とかカフェインとかが効くというけど、運動したいときにできるなら誰も苦労しないし、カフェインも効くけどお茶入れるのだるいし。

なので酸素を買いました。

ユニコム unicom 携帯酸素 ポケットオキシ クリア

ユニコム unicom 携帯酸素 ポケットオキシ クリア

酸素が効くと思った理由

低気圧で地上に何が起こるかというと、まあ気圧が下がる。つまり空気が薄くなるので、酸素の濃さ(分圧)も下がる。それで酸欠を起こしてだるかったり眠くなるんじゃないかと考えました。人混みや締め切った教室でクラクラするのと同じ感じ。

だったら、気圧を上げるか酸素を追加で吸うかしたら、元気になるのでは?と思い、比較的楽そうな酸素を吸うほうを試してみた。

酸素を吸った結果

アマゾンでいい感じの酸素が売っていたので購入。

レビューに死にかけの犬が蘇りましたとか書いてあったのでとても心強い。

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用途に通勤が入っているのがわかっているなという感じ

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使い方は、蓋と本体を合体させて、鼻を突っ込んでプシューとやる。 人間は呼吸一回で0.5L程度吸っているようなので、10L缶目一杯吸って20吸いでなくなる計算ですが、実際はもうちょっと吸えた。鼻がちゃんと塞がるわけではなく外の空気も入っているので、何も出なくなるまでに3呼吸分を15回ぐらいは吸えました。

吸ってみた第一印象

これ空気だわ。

効能と欠点

2呼吸分ぐらい吸うと明らかに脳の血管が広がって元気が出る。酸素はすごい! さすが気体だけあって即効性が半端ではない。 低気圧のための頭痛とかは一瞬で取れる。

けれど吸うのやめたら一分ぐらいでもとに戻る。多分肺の酸素濃度が下がった瞬間効果がなくなるんだと思う。

まあその間の気力をつかってお茶を淹れるといいんじゃないだろうか、という感じ。 根本的解決にはならないので、そりゃ流行らないわけだなと思う。

一瞬だけどだるいのも取れるし、頭痛が消えるのはかなりうれしい。わりとすぐ戻ってくるけど、また吸ったら消えるし。その後呼吸が深くなるからしばらく楽になるんだと思う。

まとめ

  • 酸素は効く
  • とにかくすぐ効く
  • 効果が切れるのも早い

人前では吸いづらいけど、喫煙所とかで持ってると話の種になるんではないかと思う。

リアル店舗だと登山の店などで扱っているらしい。今度は三本パックを買ってみようかな。

noubrain.hateblo.jp

「わたし」も「ぼく」も選べなくて一人称無しで暮らしていた

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つい2年ほど前まで、「ぼく」とか「わたし」のような言葉、一人称ってやつを使わないで暮らしていた。自我に重大な問題があったわけではなく(たぶん)、ただ単に、すでにある一人称の中に気に入るやつがなかったのだ。

一人称を使わないで過ごすと、いいことも悪いこともあったが、誰かの何かの参考になるかもしれない。

その時と今とで変わったことについて書く。

日本語一人称問題

日本語では、自分のことを「わたし」とか「ぼく」とか「わがはい」とか「おれさま」とか呼ぶことになっている。たくさんある中から好きな物を選ぶことができるとも言えるが、選ばされていると言った方が近い。

状況によって「おれ」を「ぼく」と「わたし」と数種類の一人称を使い分ける人がいるように、ただ単にどれか選ぶといっても、そこには複雑ないろいろがついて回ってしまう。

この社会では、一人称を選ぶということはある制度に絡め取られてしまうということだ。 英語のIのように選択肢がなければまだマシだが、日本語ではそうはいかない。

一人称を選ぶことは自分の人格を選ぶことであり、キャラを選んでしまうことでもある。 それが男用とか女用とか丁寧とか丁寧じゃないとか常識的とかそうではないとかラベルがついているものだから、本当にたちが悪い。

Xジェンダーで居たい人には厳しい世の中だ。

そんなにケッタイなものに自分の言葉を縛られたくなくて、選ばないということを選んで20年ほど生きてきた。

自分のことを表す新しい言葉を作れたらよかったのだが、それはあまりうまくいかなかった。バンクーバー教育委員会ではhe,sheをやめてxe使おうぜみたいになっているけどちゃんと流行っているかはよくわからない。 *1

幼稚園のころから定まらなかったので、結局そのまま一人称なしで暮らしてしまっていた。

一人称は別になくても生きていける(困りはする)

結局2年前に一人称を使いはじめるまで、ずっとそれなしで生活していた。

なるべく一人称を使わずに話すのは、別に慣れたくもないと思うが、慣れれば普通に生活できてしまう。

だいたい会話というものは、何も言わなければ喋っている奴が主語なので、自分の話の場合は「わたし」とか「僕」とかいうものを省略してしまっても通じはする。

この文章もここまで「私は」とか言わずに書いているが、意味不明だっただろうか。たぶん普通に読めてしまったんじゃないか。*2

それでもどうしても使わなければならなくなるときがあって、そういう時は一人称を入れる部分に、こっちは、とか、もごもご、とか言ったりする。

それが当たり前になったりすれば不便はそんなにない。といっても勘の良い人にはちゃんとバレるし、なにそれwwと言われることはあるけれど。

何かを考える時もそんなに不便はなかった気がするが、今考えると息継ぎのやり方を知らずに泳いでいたようなものだと思う。

後述するが、一人称を使わないで生活していると、自分を統一する部分がないので困ってしまう時があるのだ。

一人称がなかったひとの頭の中

自分は多重人格というわけではないけど、当時ものを考えるときは頭のなかで5人ぐらいが適当に喋るみたいな感じでやっていた。

頭のなかで喋っている人には声だけしか用意されていない。ラジオだけで声を知っている人のような感覚で、そこにはあまり違和感はない。

一時期気を病んだ時には、頭の中でわけのわからないことを言う奴とかがいて大変だったりしたが、まあとにかく考えるときは頭のなかに数人いるのが普通だった。そいつらは何種類か居るということだけわかって、決してひとつの声ではない。一度、どんなやつが居るかそれぞれ特定して名前をつけようかと思ったが、あまりうまくいかなかった。多分そんなにはっきりした存在ではなかったんだと思う。

その中の誰も一人称を使わず、身体や他の声に向かって君とかお前とか呼びかけていた。

作者不在の創作キャラ座談会のような感じが近いかもしれない。ただその中のキャラには名前すらついていないし、キャラ立ちも全然してない。すごく口が悪いのとちょっと口が悪いのがいたぐらいだ。脳内会議漫画の『脳内ポイズンベリー』みたいなやつの、キャラが立ってない版みたいな感じだ。この漫画はキャラ立ちがしているから、けっこう自我が安定してそうだと思う。

水城せとな作品心理描写が辛くて面白いからみんな読むといい

メインの「わたし」は居なくて、自分を頭のなかで指したいときはなんとなくわれわれと呼んでいた。

われわれってのは性もないし(重要)ちょっとかっこよくて気に入っていたが、けれど一人称に使うのは神を騙っているみたいだし*3なにせ人に聞かれた時によくないし、自我が余計分裂する気がする。たぶん人の身には耐えられない一人称だったんだと思う。

一人称を使わない人がみんなこうだかは知らないが、名前がついていない存在とずっと暮らしているのは精神的にも不安定だったのかもしれない。

あきらめて一人称を使うまで

それから色々あって、親しい人に考えるってこんなんだよね、みたいな話をしたら、「一人称使おう?」と言われた。「君の精神が不安定なの、きっとそのせいだよ」と言われ、当時とにかく辛かった私は、そのアドバイスに従って、ひとまず自分のことを「わたし」と呼びはじめることにした。

そのとき、やはり何かに負けたのかもしれない。何かを選んでしまったから。

男性性も女性性も押し出したくなかった「わたし」は、比較的中性で汎用性が高いと判断して「わたし」を選んだ。

男性女性で名詞や動詞を変化させる言語よりマシだけど、日本語でもどっちでもない場所に居るのは難しい。

一人称を使い始めた当初は喉につっかえる感じがあったけど、すぐに慣れた。やっぱり喋りやすい。

一人称がある世界の様子

私のことを良く見ている奴の言うことはやっぱりわりと正しくて、一人称を使うと結構世界が違ってくるようになった。

一人称を使っていなくて精神が不安定な人はぜひ試してほしいんだが、一人称を使うのは実は脳に良い。脳に良いというのはちょっと変なのかもしれないが、確実に脳の負荷が減る。脳の負荷が減るということは精神が少し安定するということだ。

というのも、この言語では一人称を使う人間を前提としている。使わないのは縛りプレイをしているようなものだ。

人間は一人称があると自己の拠り所ができるのかもしれない。西洋で哲学が発達したのは、強烈なIとかIchとかが存在したからかもしれないとすら思う。それぐらいすごく楽になった。

どういうことかというと、ここからは自分の話になってしまい申し訳がないし、もっと詳しい人が居たら教えてほしいのだが、一人称を使い始めてから、頭のなかが静かになり明らかに人数が減った。今では頭の中で一人で静かにしていることだってできる。

これを自我が統一したと呼ぶんだろうか。

今までものを考えるときは、大量の声が喧々諤々、君はこうしろああしろと言う*4中から、声が大きい、または気に入った意見のやつを自分の意見にしていたのだが、核となる「わたし」ができたことで、そいつらの意見をまとめる場ができた。議長を立てることで、議論が成立するようになったのだ。

自分のことをわたしと呼び始めるだけで、自分の中にもわたしと呼べる場所ができるとは、言語とは不思議なものだと思う。

船頭多くして船山にのぼるというが、今まではそんな感じだったんだなと、頭が静かになってはじめてわかった。

それによって、それまで全然書けなかった文章というものが書けるようになった。ツイッターのような短文は、どれか一人のつぶやきでいいのでいくらでも書けるのだが、まとまった文章を書くとなると、よく支離滅裂になりがちだった。多分いろんな奴が騒いでいたからだと思う。それが書けるようになったのは、けっこうな驚きだった。

あと人と会話がしやすくなった。会話ではわりとよく意見を求められることがあると思うが、そこでわたしはですねーとか言えるので、いきなり意見から言う必要がない、つまり時間稼ぎができる!

今でも喋るのは別に得意ではないが、少しマシになったんじゃないかと思う。

まとめ: 一人称を用意すると言語との関わり方が変わってくる。

自分のことを頭のなかで君とか呼んでいる人は、一人称をつかうことでちょっと生きやすくなるので是非試して欲しい。

まあクソみたいなわたしとかぼくとかいう選択肢の中からどれかを選びとる必要があるので、それがちょっと辛いかもしれないが、精神の安定は何物にも代えられない。多分もう一人称を使っていない世界に自分の意志では戻ることはないだろう。

巨人の肩に乗ってしまえばもう降りられない。けれども、景色はそんなに悪くないように思う。

noubrain.hateblo.jp

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*1:【米国発!Breaking News】He、Sheをやめ“Xeを使用”とカナダの教育委員会ジェンダーフリー発想もPTA大混乱。 http://japan.techinsight.jp/2014/06/yokote2014062414310.html

*2:しっかり文章を確認した人には、ずるい!と言われそうな使い方をしているかもしれない

*3:日本語訳コーランではアッラーの一人称はわれわれなんだよね

*4:2017.3.5追記 そういえばかつては、思考する時は自分のことを君、と呼んでいた。二人称はあったのか!