会社の居心地が悪いことを友人に話したらいいことを言ってもらえた話
私は会社で労働するってのが全然得意ではない。基本的に毎朝起きてどっか行く生活が向いていない。会社の雰囲気も苦手だ。社内に話せる人は居なくはないが、基本的には自分が浮いているような気がする。
今の会社ってのはゆるめの体育会系で、まだ小さいからか、社長周辺の気の合う仲間でワイワイやってる感じだ。私は別に社長と気が合わない。なぜ私がここに居るんだ?と思うことが多い。
この前も親睦を深めるための合宿があったのだが、私と他の社員との間の溝が可視化されただけだった。
小さい会社だ。私はここでは邪魔者なんじゃないか。なぜ今まで気づかなかったのかわからないが、実は特別支援学級的な待遇を受けているんじゃないか。居心地が悪いのは自分なのではなく周囲の方なのでは? 会社側では人をあまりこちらからクビにはしたくないと言っているが、本当はどう思っているんだか!
友人に相談してみると、友人がいいことを言った。
君が会社に雇われてることに、君が責任を持たなくていいんじゃないかな、というのも、相手は最初に君を雇うことに決めたのだから、君がそこに居るのは君の責任ではない、仕事を干されてるわけでもないのなら、君はそこで必要とされてるってことだよ、自分で自分を貶める必要はないんじゃない?
と、おおよそこのような感じだった。
私はそれにいたく感激した。その通りだよ。別に嫌になればクビにしてもらって構わない、少なくとも肉体は健康だし、こんなことに悩む程度の知能は存在している、ならば行き先は無くはないはずだ。私はいつだって辞められるし、会社はいつだって私をクビにできる。*1
それでも私がいまクビになっていないということは、少なくとも今は私が必要とされているからだ。
これに気づかせてもらって、その日から仕事がそんなに辛くなくなった。浮いてても別にいいんだよ、仕事やってんだから。やることやってたら人間関係は適当でもいいでしょう。人間関係を業務に含めるんだったら人間関係の分も時給を出して貰わないと。
まあ今でも辞めたくないわけではなく、というのも私はどんなことだって辞めて本や字を読み書きし楽器を鳴らして歌を歌って暮らしていたいから、会社だけが特別辞めたいわけではない、それでも、家賃を払い自分の生活費を賄うという今の生活を続けていくにあたって、いいことを聞いたなあと思った。
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息苦しくなく文学をやる
私はいま短歌をやっていて、もう四年ぐらいになるかなあ、そろそろ短歌のことをよくわかりたい気持ちになってきたので、1月から『現代短歌の鑑賞101』を頭から写経している。
学ぶことは多い。人生がいかに作るものに反映するか、してしまうのか、とか、ただの風景を57577の枠に入れることでここまで面白くなるのかーとか、結社に入らずにすごい短歌を作る人もいるものなんだなあ、とか。
けれど、最近面白くないゾーンに入ってしまったのか、写していても楽しくなくて、それで短歌のことがわからなくなってしまった。そりゃ今までもわかっていたかというと、そんなことはないのだけど。その面白くないゾーンの面白くない人は、正字(国を國って書いたりする)を使うし、変換候補の奥深く眠っているような見たことない漢字を使った言葉を使うし、文語で書き、七五調でどんどんいく。ぱっと見すごく短歌っぽい!ちゃんと読んでも短歌だねえ、と思う。格調高くもあるんだろうなと思う。
私はその人の短歌を読むことで、風景や感情を短歌に見せる方法がわかった。正字を学び、語彙を増やして、文語で書けるようになれば、私にもこのような短歌っぽい短歌が作れるんだろうと思った。
でもそんなこと全然やりたくなかった!
正字のことは嫌いではない。語彙だって手持ちの少なさを歯がゆく思ってる、いつか文語もやらないといけないんだろう。それはいい、けど問題は、短歌っぽい題材を選んで短歌っぽく調理してはいどうぞうーんこれはどう見ても短歌ですねおいしい!ってなったとして、それが面白いのか?ということだ。
私はその人の作るものに、短歌っぽいということ以外の何かを見いだせなかったのかもしれない。
でもやっぱ短歌をやるには、やっていくには、そういうのも作れた方がいいんだろうか、友人に話すと、「君はすごくやりたくなさそうだよ、面白くないことはやらなければいいんじゃないかな」と言われた。本当にその通りで、あまりの正論に気分が良くなり、その晩面白くないゾーンを勇気を出してどんどん飛ばし、そして人生が良くなった!
その日の前にちょうど保坂和志の本を読み終えていたのだけど、保坂和志はそのような、小説っぽい小説みたいなものに抵抗し続けているのだなあと思う。形式にはそれに期待される書き方みたいなのがあって、小説とかも話に始めがあって終わりがあり、伏線を回収したりする。そんなん当たり前だろ〜って思う人もいるだろうけど、小説の世界はもうちょっと豊かで、少なくともカフカやベケットはそんな書き方をあまりしなかった。
別にそれっぽいものを作ることは悪くない、けど、それっぽいものの真似を続けてそれっぽくなり続けるのは息苦しくないか。
そう考えると、逆に何が文学、作品を作っているのか、というのが気になってくる。文学みたいな喋りはある。それは書き言葉であり、文体であったりする。でもいまここに書いている日記のようなものや、路上で人が喋っていることや、看板や、広告のトラックから流れるバニラの求人が文学ではないと誰が言えるのか。
街のことば (@machi_tweets) | Twitter
ツイッターの街のことばとかすごいアカウントで、私はこれが大好きだ。これは街の人々の会話の盗み聞きというか、印象的なことばを流しているのだけど、リプライを送ると詳細を教えてくれる。これがすごい、なんというか、突き放される心地がする。
あっちも見てたんだけど全然違う方向見てた
— 街のことば (@machi_tweets) 2016年9月26日
みたいなツイートにリプライを飛ばすと、例えば「恵比寿で30代男性が言ってました」とか教えてくれるんだけど、すごくないですか? だってそんなことわかったってその言葉の理解に全く関係してこない。切り出された街の言葉を見た瞬間のなんだよこれ、という感じがぜんぜん消えない。場所や人について知ってもこの言葉の文脈はわからない。気になる気持ちだけが宙づりになって、笑ってしまう。理解をすればすっきりするんだろうけど、きっと永遠にできないね、ということをこんなにも鮮やかに描き出している、すごい。文学か?と思う。
こういうのを見ていると、文学やそうでないかというのは受け取り手の問題なんじゃないかと思ってしまう。絵とかならわかりやすくて、ポロックみたいななんかぐちゃぐちゃしてるものでも、これは有名な作者のやつだよ〜〜って渡されたら、そうか、これはすごい絵なのか!ってなる。それは、渡された人が、芸術として受け取る準備ができていたから。この作者には街の断片も芸術として受け取る準備ができてて、だからこういうのを集められるし、それが面白くて仕方がないのだろうな。
そう思うと、言葉の世界はそんなに息苦しくなくて、自分が本当に使っている言葉で、かっこつけたりしないで何かを書くことも不可能ではないんじゃないかと思う。この文も肩の力を抜いて書いた。
写経に使っていた卓上譜面台です。軽いし畳めるので重宝してる
じいさんとわかりあいたかった話
亡くなったじいさんについて
私の祖父(以下じいさん)は、気に入らないことが多い人だった。
私が辛く苦しい就職活動を終えたときも、じいさんは大企業でないことが気に入らなかったようだった。もう就活は終わったと言っても、せめて公務員になれ、と、こちらの話も聞かずに公務員試験の教科書を送りつけてきたのだ。公務員試験の期日も、もう過ぎていたし、こちらもなにも考えないで就職先を選んだわけではなかったのに。
心配してくれていることは理解したけれど、その時はないがしろにされた悲しみが勝った。それ以来、ほとんど話もせず、じいさんからメールが届いても(メールができるじいさんだったのだ)ほぼ全て放置してしまっていた。
そんなじいさんが先日亡くなったのだが、私はその葬式で大泣きしてしまったのだ。じいさんのろくでもない行動に、すっかり失望していたはずなのに!
まあすべてがクソだったわけではない。一緒に旅行に行った時だってあったし、その時は楽しかった。でも、だから泣いたのかというと、多分それは違う。きっと、じいさんと話が通じないまま終わってしまったのが悲しかったのだ。
話ができないとはどういうことなんだ
じいさんと私との間には断絶があった。
この断絶とは、話の前提にしているものの違い、ということだ。同じ就職活動という言葉を使っても、そこでイメージするものはぜんぜん違ったんじゃないか。じいさんには私の人生がヤバいということも、単なる努力不足にしか見えなかったんだろうと思う。*1その人が簡単に乗り越えてしまったり、そもそも感じずに済んだ困難をわかってもらうことは非常に難しい。
前提が違うから話が通じないってのはよくあって、例えば宗教とかでも、三位一体だよ、とか、キリストは十字架から復活したんだよ、とかあるけれど、そんなの無茶だよ、と思う。だから、その教えに救われた人とは話を通じさせられない。でもその前提を飲み込んだ先にしか進めない境地があることも理解している。
さっきのは極端な例かもしれないけれど、男女平等とかの理念でも、信じている人と夢にも思わない人が居て。でも男女は平等だよねってことを飲み込んでもらわないとできない話もある。けれどそれを飲み込ませたり、飲み込んだフリをしてもらって、話を聞いてもらう、なんてことはすごく難しい。なぜならその前提ってのは、人生や誇りにかかわる話かもしれないから。
断絶を越えること
さまざまな断絶
前提が違うこと自体はいい。完全にわかり合うなんて無理だ、人生が違うから。けれど、その違いを、断絶を越えて話ができるかどうかは問題だ。
断絶なんてありふれたもので、人と話していても、なんでそんなことすらわからないんだ!と思ってしまうことぐらい、よくあることだ。*2
けれど、このあまりにも多い断絶のすべてを、わかりあえないね、でやり過ごしてしまうのはあまりにも寂しいんじゃないか。
フランス語しかわからない人に日本語で話しかけても通じないように、明らかに断絶がある相手には、その断絶を越える言葉、文法が必要なんじゃないか。
断絶を越える文法
ある講演会で、セクシュアルマイノリティの権利活動をしている団体の人の話を聞いた。
その団体は、企業などの研修に赴いて、セクシュアルマイノリティの話をする仕事をしていた。その話によると、企業の人には、セクシュアルマイノリティの人々が、どれだけの弾圧を受け、苦しめられているか、みたいな話はあまりしない。
その代わり、企業人にもわかるように話をする。もう当たり前に同性カップルがCMに出たりしている国もあるのに、そういうのがもう当たり前になっている国で差別発言とかしたら、取引先との信用問題になるかもしれないよ。ちゃんと差別について考えることで、リスクを避けられるだけでなく、少数派だけでなく多数派にも生きやすくなるんだよ。と。
話を聴いてもらうには、それはとてもいい方法だろう。実際研修のウケも良いらしい。
けれど、これは結局、ゆるい共存を望むための文法だ。それで手に入れた理解で満足できるのか、というとわからない。ゆるい共存を望んでいないわけではないし、たしかに断絶は越えているけれど。ディスられた悲しみとか、今まで苦しんでいたこととかは届かない。そりゃ確かに、私は私の痛みのことを可愛がりすぎているのかもしれないし、そんなことわかってもらう必要なんてないのかもしれないけれど。
断絶は越えたいけれど、相手に合わせて自分の言いたいことを言わないでおくのはちょっと違う。
けれどここから学べることはもちろんあって、そもそも話を聞いてもらうためには、まず相手に耳を傾けてもらわないといけないということだ。
そう考えると、分かり合えない人間同士で何かを伝える方法として、伝達の型みたいなものには意味があるんじゃないだろうか。型ってのはその企業研修であったり、論文であったり短歌の57577であったりのことで、ジャンルとも言えるだろう。これから研修始めます、とか、ジャズをやります、とか言えば、相手方は、そうか研修か、とかそうかジャズかと言って、受け取る準備ができる。
相手が受け取ることが出来て、なおかつ自分の言いたいことを言える型さえ見つかれば、少なくとも話を聞いてもらえるんじゃないか。
おわりに じいさんと話すには
じいさんには、どうやって話せばよかったのだろう。
じいさんも、なんで大学まで入って大企業に行かなかったんだ、という疑問があったから、突然参考書を送り付けるという行動に出たんではないか。だから、理由を話せば、受け止める準備はあったんじゃないか。説得とかではなく、嘆きでもなく、ただ単にお話、物語として。
物語ってのは相手の理解なんて関係なく進む。そして別の理屈が存在することを見せてしまう。その点で、強い強い形式だ。感情を伝えるのにも向いている!神話が物語の形になっているのも、伝道の時に物語をするのも、論理的な話ができなかったのでなく、ただ単にそうやらなかっただけなのではないかと思う*3
じいさんとはもうお話なんてできないし、したってやっぱりめちゃくちゃな否定を受けて、傷つくことになったかもしれない。けれど、話をしたことは覚えていてもらえたんじゃないか。今ではそう思う。もうできないからこんなこと言えるのかもしれないけどさ。
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2016年 知ってよかった概念5つ
今年も色々ありましたね。
ただ振り返るだけだとつまらないので、今年知ってよかった概念を紹介します。
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勉強もスポーツも体力を消費するという点では同じなので、必須アミノ酸であるBCAAをとっておくと調子よく勉強できるという話を人から聞いたことがある。
これはすごくて、めっちゃBCAAが入っている。
仕事で疲れて帰ってきてもうやだごはんだるいお風呂入りたくない原稿?明日やるよやだ〜〜〜ってなっているようなときでも、これを飲むと、さてやるかーってなる程度には疲労が取れる。そりゃもう劇的ビフォーアフターってな感じで元気になる。多分私は普段からアミノ酸が足りていないのだと思う。
今年はこれを知ってだいぶ人生がマシになった。
最近はタブレットのやつを気に入って食べている。タブレットはけっこうおいしいし水無しで食べられるから手軽で良い。
類似品が出ててそれも試したけれど、味の素のやつのほうが明らかにおいしいし効果がある感じがする。何が違うんだろう……。本物、あんまり安くないんだけどね。
gifted
giftedとは、IQ130超えの人々を指す言葉だ。
私はこれまで、人の知能を数値化するIQと言うものに胡乱なものを感じていたし、古臭い概念だなあと思っていた。IQテストって対策すれば簡単に高い点数取れそうだしさ。 なのでIQが高いと聞いても大した感銘を受けずにいたし、少なくとも私の周りにはIQ自慢をする人もいなかった。*1
そうは思っていたのだが、この人のこのブログを読んで衝撃を受けた。(すごく面白いのでぜひ)
勉強が好きでも、いじめが無くても、学校はトラウマ: 人生茶の如し須く細品せよ
やっぱ桁違いに成長が早くて頭がいい人って居るんだなあというのに感銘を受けるし、IQという尺度は胡散臭くはあっても、訳わかんない天才を引っ張り出す指標にはなっているんだなと思う。
そしてこの国で要求される「健常」ってやつは、頭が良すぎないことすら含まれるのか、とも思う。けっこう絶望的だ。
頭良くても辛いことがあるというか、まあバカのふりをしないと居づらい環境に置かれ、自分の勉強をしないといけないと焦っているのに何周も遅れたお遊びみたいな授業に付き合わされるのなら、そりゃ学校も地獄になるだろう。別に頭がいいからうまく生きられるとかそういうことではなく、ただ「普通」で、それでいて従順な人が生きやすいようにできているだけなのだ。
これは余談だけど、私の2016年は週5の労働に耐えきれず体調を崩し、労働時間は減ったはいいものの、そのせいで金がなくなった年だった。ので単発のバイトをいくつかしていたのだけれど、その中にIQ検査を受けてクオカードをもらう治験があった。
それが私の受けた初めての知能検査的なものだったのだけど、私の結果は、運動音痴であることが数値的にも裏付けされてしまった*2ことを除けばそれほど面白い数値ではなかったし、死ぬほど頭がいいというわけでもなかった。体調が良ければもうちょっと良い数値出たんじゃないかとは思ったけれど。
しかし私程度でもバカのふりをしたりしょうもない周回遅れの授業みたいなのに付き合わされる苦しみはわかる。2歳で字が読めた人はどれほど苦しかったんだろうか。 私は教育関係の仕事をやっているのだけれど、自分が今やっていることがほんとうに良いことなのか。
誰もバカのふりなんてしなくていい世界がいいよ、本当に。
このブログの人は2008年に更新が途切れているけれど、楽しく生きていてくれているといいなあと思う。
workflowy
文章を入力するツール。リストをインデントして、どこまでも小リストを作れることが特徴。
メモとか読んだ本の記録や読みたい本リストや野望の下書きやブログの記事を書くのに使っています。アウトラインプロセッサってやつ。
使い方はこの辺を参考にするといいかもしれない
長い文章を書く人のためにアウトラインプロセッサの基本をまとめてみた 読書猿Classic: between / beyond readers
別にわざわざ変なツールを使わなくても、テキストファイルでも字は書けるんだけど、インデントした先を折りたためると想像以上に見通しが良くなるし、このworkflowyってやつはスマホでもいじれてうれしい。アプリは若干使いにくいけれど。
無料版だと月々に作れるリストの個数が250個制限されて地味にプレッシャーなので、適当に人を招待するといい。
私はあまりその機能のいいところを使い切れている気がしないのだけど、なんでも突っ込めるメモツールとして優秀なので喜んで使っています。
WorkFlowy - Organize your brain.
原稿用紙
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これを使うことで、何年も書くぞ書くぞと思っていた小説が、ついに書けるようになった。
まあただのマス目の書いてある紙なんだけど、文字数カウントを自動でやってくれるようなものだし意外と便利。書き心地もいい。
PCでいいじゃないかと思うかもしれないけれど、原稿用紙は修正は少ししかできないし、どうしてもやり直したければ書き直すしかない。よって、書き進めるための力が働く。これは先に進むためのツールなのだ。
PCよりも肩も凝らないし、目にも優しい。良い概念を知ったものだ。
トカゲ
6月ぐらいからフトアゴヒゲトカゲを飼い始めた。名前は知性という。
それまで素早いトカゲしか見たことがなかったのだけど、このフトアゴヒゲトカゲは砂漠のトカゲで、殆どの時間を止まったまま、日光で身体を暖めて過ごす。素早いのは走る時と虫を取りたいときだけ。
このトカゲは非常に静かな生き物なのだ。
ハムスターや犬などの哺乳類は、起きているときは大体カサカサ動いている。猫だって遊ぶ。常に動き続けることで体温を保ち、世界を把握するのだろう。けれど、そうでない生き方を選んだ種族も居るのだ。
トカゲは、自分に関係ある情報しか把握していないように見える。普段は完全にじっとしているだけだし、多分空腹や眠気はないんじゃないかな。眠いと思ったら既に寝ているし、食べられる状態で食べ物に気づいたらすでにハンティングモードに入っている。リーチ外の虫や、興味がない野菜には全く反応をしない。
哺乳類に生まれた我々とは、生存のスタイルが違うんだろう。
人はトカゲのように生きられるだろうか。あんまり焦ってカサカサしすぎるの、あんまり良くないように思える。
トカゲを飼うと餌の虫も飼うことになるのだけど、虫の生態も見られてよかった。虫もすごくて、生命の根源に近い感じがする。虫は簡単に増えるし、共食いをするし、すぐに死んでしまう。
その先に何があるかを知るわけもないのに、狭い箱から出ようとするし、脱走したあと長いことカーペットの裏などで生き延びていて驚かされることがある。食べられている間も動き続けて、生きることを諦めたりしない。生命の怖いところを集めたような生き物だ。
社会には人間ばっかり居るので、ぜんぜん違う生き物が家に居ると何かのバランスが取れるような気がする。
まとめ
2016年も学ぶことが多い年でしたね。
あなたの知ってよかった概念もぜひ教えてください。
#読書週間 ジョー・ブスケ『傷と出来事』
私の語法が、私のうちで沈黙の権利しか与えられなかったものの全存在であれば良い(p.46)
読書週間は過ぎてしまったけど好きな本の話をしたいのでちょいちょい進めている。
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第一次世界大戦の戦場で受けた傷で半身不随になり、ベッドに縛り付けられながらも詩人になった人のノート。シュルレアリストたちと仲が良かったらしい。 内容はアフォリズム的な、病床で頭をよぎった断片を書き留めたもののように見える。詩人なので断片もいちいちかっこいい。
好きな箇所はかなりあって、まずエピグラフのチョイスからやばい。これがそれ。*1
あるとき、魂の住処がかげりはじめた。腺組織が異常に発達したトカゲたちはとてつもなく巨大化した。ランプの大いなる灯りが消え去ろうとしていた。巨大トカゲたちは最後の見者だった。深遠な原初の光が途絶えようとするまさにそのとき、トカゲたちはもっと多くを見ておこうと最後の力をふりしぼって立ちあがった。夜明けの青白い光があらわれはじめたところだった。夢の眼は消えさろうとしていた。(エルネスト・ジレ「離宮の祝祭・さえずり」)
ブスケはかなりニーチェっぽいことを言うし、病床で執筆したという点でもニーチェに似ている。ニーチェも詩人だしね。ただニーチェよりは友人に恵まれていそうに見えるし、文体もニーチェの俺の周りのやつは俺を理解しないがお前にだけは伝わると思って書いている、みたいなものとは違う。
理解して欲しいというより、諭しているように見えるし、その文章はドゥルーズにも影響を与えたという。
どこかで私はこう述べた、われわれを真実から致命的に逸脱させるのは、われわれの不注意が招きよせる、あの真実の粗雑な形式以外ににはない、と。私はこう書くべきだったかもしれない。真実の模倣にすぎない、真実のあれら粗雑な形式。(p.14)
こういうことはよくあって、物を考えるときには、どうしてもぽっと思いついた、普段の生活によって思いつかされたような考えに目をくらまされてしまうことが多い。最初に思い浮かぶことは大抵ロクでもない。ちゃんと考えるには邪魔なものは多いし、邪魔なことの方が多く流布していたりもする。陰謀論とかね、わかりやすいし納得いくような気がするけど、真実の粗雑な形式でしかないから。
そういうことが言いたいだったらわかりやすくそう書けよ、と思う向きもあるかもしれないが、こういう風に書くといいことがある。
あえて考えさせる書き方をすることで、人を立ち止まらせて、簡単には伝わらないようなことを伝えることができる。
この本はそういう本で、床についた詩人の見たものを、じっくりじっくり伝えるための速さを持っている。
ブスケはきっと、生を愛することを通じて、自分を襲った運命、傷までをも愛するようになったんだろうと思う。
あまりグダグダ言うのも無粋なのでここからは気に入った部分を引用する。
私の眼にはっきりと映し出されるのは、私の生を鍛え上げた手でなく、その手に握られたハンマーである。年を経るごとに私は生から遠ざかったが、生それ自体が私から遠ざかることはなかった。傷が私の肉に植え付けたのは、私が傷を負った五月の夜に咲くバラである。私は、そのときと変わらない心で感覚し、生きている。
沈黙が海であるような、ああした奇妙な晩のひとつ。まるで沈黙が、もう一つの沈黙を私に近づけたかのように、そこでは、どんな物音も途絶えることがない。こうした晩には、私は自分が生成していたかもしれない人物をおおよそ見抜くことができる。私が必要としていたのは、人々の生が脅威に晒されたときに人びとが示す寛容さであり、さらには脅威それ自体である。(p.21)
われわれが探しているのはわれわれの生ではない。生はわれわれと一緒に探しているのである。(p.59)
人びとを愛するのに、自分と似ていることを理由としてはならない。君の愛を、人びとの生に見合ったものにせよ。人びとをその貧しさから引き剥がしてはならない。彼ら彼女らの貧しさそれ自体を肥沃にせよ。(p.64)
われわれが世界と切り離されているのは、ただ、われわれ自身がそのようにしたからである。傷はこの分離そのものである。われわれが傷つけずに愛することができないのは、われわれが傷ついているからである。(p.105)
真面目さについてのレッスン。文化が危険にさらされるとき、私が憤りを覚えるのは、文化が滅ぼされうるというのに、私の生が奪われないということである。私は自分自身に憤るのである。
私は文化から数々の特権を享受してきた。私自身がその救いになるべきだとは気づかないままに。
愛する者の責任を負うことができなければならない。(p.116)
遅れて到来する者たちのために私は書く。私に似た魂たちとともに。私が死によって傷つけられたように、生それ自体によって傷つけられたと感じるほど純粋な魂たちとともに。われわれの克服し難い苦痛が、われわれ自身のヴィジョンに移行するのを感じるとき、われわれの存在が、われわれの苦痛でないはずがあろうか?
重要なのは、作品に充てられた計測可能な時間の持続ではなく、そうした時間の磁力である。そして努力の継続が時間を擬人化し、時間が人間の生ではなく、その人間自身であって欲しいと思う。(p.134)
人間よ、よく覚えておけ。君はとるにたらない存在ではない。君は君という存在以外の全てである。(p.164)
ブスケはフランスの映画、「アデル・ブルーは熱い色」の中でも引用されているらしい。
私は愚かにも、アデルは意志が弱い女の話だと思っていたのだけど、友達の詳細な解説を聞いて思い直した。*2あれは階級の話で、意志を言葉にするひとと、言葉にはしなくともその意思を生きる人との話らしい。まさに
私の語法が、私のうちで沈黙の権利しか与えられなかったものの全存在であればよい
そのままだ。言葉にしないということだって語法のひとつだし、人間は言葉の中を生きているので、生き様さえも語法になりうる。 もっかい観たいな。