知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

息苦しくなく文学をやる

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私はいま短歌をやっていて、もう四年ぐらいになるかなあ、そろそろ短歌のことをよくわかりたい気持ちになってきたので、1月から『現代短歌の鑑賞101』を頭から写経している。

 

現代短歌の鑑賞101 (ハンドブック・シリーズ)

現代短歌の鑑賞101 (ハンドブック・シリーズ)

 

 

学ぶことは多い。人生がいかに作るものに反映するか、してしまうのか、とか、ただの風景を57577の枠に入れることでここまで面白くなるのかーとか、結社に入らずにすごい短歌を作る人もいるものなんだなあ、とか。

 

けれど、最近面白くないゾーンに入ってしまったのか、写していても楽しくなくて、それで短歌のことがわからなくなってしまった。そりゃ今までもわかっていたかというと、そんなことはないのだけど。その面白くないゾーンの面白くない人は、正字(国を國って書いたりする)を使うし、変換候補の奥深く眠っているような見たことない漢字を使った言葉を使うし、文語で書き、七五調でどんどんいく。ぱっと見すごく短歌っぽい!ちゃんと読んでも短歌だねえ、と思う。格調高くもあるんだろうなと思う。

私はその人の短歌を読むことで、風景や感情を短歌に見せる方法がわかった。正字を学び、語彙を増やして、文語で書けるようになれば、私にもこのような短歌っぽい短歌が作れるんだろうと思った。

 

でもそんなこと全然やりたくなかった!

 

正字のことは嫌いではない。語彙だって手持ちの少なさを歯がゆく思ってる、いつか文語もやらないといけないんだろう。それはいい、けど問題は、短歌っぽい題材を選んで短歌っぽく調理してはいどうぞうーんこれはどう見ても短歌ですねおいしい!ってなったとして、それが面白いのか?ということだ。

私はその人の作るものに、短歌っぽいということ以外の何かを見いだせなかったのかもしれない。

でもやっぱ短歌をやるには、やっていくには、そういうのも作れた方がいいんだろうか、友人に話すと、「君はすごくやりたくなさそうだよ、面白くないことはやらなければいいんじゃないかな」と言われた。本当にその通りで、あまりの正論に気分が良くなり、その晩面白くないゾーンを勇気を出してどんどん飛ばし、そして人生が良くなった!

 

 

試行錯誤に漂う

試行錯誤に漂う

 

 

 

その日の前にちょうど保坂和志の本を読み終えていたのだけど、保坂和志はそのような、小説っぽい小説みたいなものに抵抗し続けているのだなあと思う。形式にはそれに期待される書き方みたいなのがあって、小説とかも話に始めがあって終わりがあり、伏線を回収したりする。そんなん当たり前だろ〜って思う人もいるだろうけど、小説の世界はもうちょっと豊かで、少なくともカフカベケットはそんな書き方をあまりしなかった。

 

別にそれっぽいものを作ることは悪くない、けど、それっぽいものの真似を続けてそれっぽくなり続けるのは息苦しくないか。

そう考えると、逆に何が文学、作品を作っているのか、というのが気になってくる。文学みたいな喋りはある。それは書き言葉であり、文体であったりする。でもいまここに書いている日記のようなものや、路上で人が喋っていることや、看板や、広告のトラックから流れるバニラの求人が文学ではないと誰が言えるのか。

 

街のことば (@machi_tweets) | Twitter

 

ツイッターの街のことばとかすごいアカウントで、私はこれが大好きだ。これは街の人々の会話の盗み聞きというか、印象的なことばを流しているのだけど、リプライを送ると詳細を教えてくれる。これがすごい、なんというか、突き放される心地がする。

 みたいなツイートにリプライを飛ばすと、例えば「恵比寿で30代男性が言ってました」とか教えてくれるんだけど、すごくないですか? だってそんなことわかったってその言葉の理解に全く関係してこない。切り出された街の言葉を見た瞬間のなんだよこれ、という感じがぜんぜん消えない。場所や人について知ってもこの言葉の文脈はわからない。気になる気持ちだけが宙づりになって、笑ってしまう。理解をすればすっきりするんだろうけど、きっと永遠にできないね、ということをこんなにも鮮やかに描き出している、すごい。文学か?と思う。

こういうのを見ていると、文学やそうでないかというのは受け取り手の問題なんじゃないかと思ってしまう。絵とかならわかりやすくて、ポロックみたいななんかぐちゃぐちゃしてるものでも、これは有名な作者のやつだよ〜〜って渡されたら、そうか、これはすごい絵なのか!ってなる。それは、渡された人が、芸術として受け取る準備ができていたから。この作者には街の断片も芸術として受け取る準備ができてて、だからこういうのを集められるし、それが面白くて仕方がないのだろうな。

そう思うと、言葉の世界はそんなに息苦しくなくて、自分が本当に使っている言葉で、かっこつけたりしないで何かを書くことも不可能ではないんじゃないかと思う。この文も肩の力を抜いて書いた。

 

 

 

ARIA アリア 譜面台 AMS-30DT 収納ポーチ付属

ARIA アリア 譜面台 AMS-30DT 収納ポーチ付属

 

 

写経に使っていた卓上譜面台です。軽いし畳めるので重宝してる

 

 

 

 

 

 

 

短歌の題詠のネタを考えてくれるbotを作った

短歌は57577の方で、お題にしたがって短歌をつくることを題詠という。

題は漢字の場合もあるけれど、モチーフや何かの縛り(オノマトペを入れる、など)の場合もある。 今回は漢字だけが出てくる。

動機

  • javascriptで何か作りたかった
  • ので自分の作れる範囲で面白いものを考えた
  • 短歌の題を考えてくれるchatbotとか楽しそうだし何かに使えそう

できたもの

これです https://etahapi.github.io/daiei/

題詠のネタ

しくみ

  • jade + sass + js をgulpに食わせてる。この仕組みは前にゲルゲが用意してくれたものを流用してる
  • 中身はよくあるおみくじと、よくあるchatbotを組み合わせた感じ
  • おみくじの中身は常用漢字表
  • 選出基準はひみつ(どうしても気になる人はソース読んで)

考察

  • 題の選出基準はかなり適当だけど、ひとが勝手に題同士の近さや遠さを見出してくれてるので、人間は良い存在だと思った
  • chatbotは押したあとわざと長めに間をとるとそれっぽい
  • 中身おみくじでも見た目つくるとそれっぽい!!!

これからやりたい

  • 近いやつを押したとき、たまに本当にめちゃくちゃ近いやつが出るようにしたい
  • 選んだ題からおすすめの歌集を出してくれたりしてほしい

コードはgithubに上げてあります

GitHub - etahapi/daiei: 題を考えてくれる

鈴を産むひばり

鈴を産むひばり

小説を書くと脳に良かった話

どうにもいろんなことが信じられなくて、例えば私は仕事でデザイナーとして暮らしているけど、世界のほとんどの色がRed Green Blue の3色の組み合わせで表現できるとかいうのが全然信じられない。

モニターで全ての色を表せるわけではないことははっきりしていて、例えばモニターの黒より暗い色は出せないことはすぐわかる。けれど写真を見て、同じものが映っていると認識できるぐらいには色はたくさん表現できてるわけで。

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そのRGBの組み合わせから選んでデザインみたいな事をしていると、世界に色はこれっぽちしかないんだろうか……みたいな気分に襲われる時がある。これで全部表せる!みたいな物が本当に信じられないのだ。*1

あとこの前カントを読んだんだけど、本当にこれがあのカントなのか、カントが書いた文章とおなじ意味のことがこれに書いてあるのか?やばくない?カントってもう死んでるんだぜ?何年経ったと思ってんの?いや偽物だと思っているわけではないけど、本当の本当に200年前に死んだ人の本が今でもめっちゃ読まれている!みたいなことは全然信用ならない。読んでいても本当にあのヤバイ哲学者のカントなのか?ってのがわからない。リアリティがないというより、体験としてわけがわからない。

家の壁の丈夫さも信じてないけれど、この前穴があいてしまって、たしかに家を建てることも破壊するもことができるなら、穴ぐらい開くだろうというのは当然なんだろうけれど、それでも穴が開くところを見るのは初めてだったので、世界に対する信頼は少し失われた。壁のようなものからさえ、世界に対する信頼が発生していたんだなと思う。

信じられなさすぎると人生に支障をきたす。

未来が信じられない若者ってやつは、30まで生きるということも信じられない。私は30で死ぬことすら信じられなくて、45とかまで生き延びてしまって野垂れ死にギリギリラインで苦しむんだろうな、早死できたらラッキーだけどそこまで自分はラッキーではない、ぐらいには思っていたし今でも少しそう思っているんだけど、まあどうなるかはわからない。

ただ保険とか貯金とかは、自分にマトモな未来が来ると信じていられるからできるもので、信じられなければ常にノーフューチャーだし月給取りになることも困難だ。若いうちはキツイけど出世するまで我慢する、とかもできない。

未来を信じていなければ人と約束もできなくなるし、そこまで来るとさすがに困るので、信じられなくても信じているふりをして生きるしかない。

そう、信じられないと大変なんだ。

けれど小説を書き始めてから、世界や時間を信じはじめた、というか、信じざるをえなくなった。

小説を書きはじめてよかったこと

物をよく見るようになる

短歌とかでもそうだけど、路上観察が捗る。好きなものを見るあたらしい視線ができるというか。

そういうときに言語化しておくと、言語に残ったものだけではあるけど、それを長いこと覚えておくことができる。

書き終えるために時間をかけることができる

小説は時間を描くことに適した形態だと思う。

小説に比べてかなり短い短歌とか俳句みたいなのは、断片のようなものを放り出すことで、否応なしにその人の記憶とか、そうなったときの感じみたいなものを引きずり出すことができる。そこから出てくるものはかなり読み手の記憶や経験に依存するので、好き嫌いとか、読める読めないの差が激しく出るのはそのせいかもしれない。

小説は、読むのにも書くのにも時間がかかるというその長さが、弱点でありいいところでもある。読むのに時間がかかるということは、読者の方の記憶になることができるということでもあるから。

登場人物のキャラが濃ければ、読者はその登場人物のことを覚えるだろうし、そいつのことを好きになったりすることまでできる。

長いと書くのは大変だけど、多分長さが小説を小説にしているし、小説が記憶になるということを、書く側も読む側も考えてみると面白いかもしれない。書いている人は、たとえ小説を書かずに洗濯物を干しているときでさえ、小説のことを考えれば小説の中の時間に居ることができる。

だから作り終えるまで時間がかかる作品で、なおかつ進んでいるのが見えるようなものはたぶん全体的に脳に良くて、書いているうちに世界や時間に対する信頼みたいなものができる。一日で書き終わるならまだしも、書き上げるのに一ヶ月かかるんだったら、一ヶ月は生きていたいと思うだろう。まあだからこそ、世界を信頼していないとなかなか手をつけられないのかもしれない。

小説をうまく書き始める方法

入門書

小説入門はこれが良かったけど、逆に書けなくなるかもしれない。そういうもののほうが良い入門書だとは思うけど。

書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

小説のストラテジー (ちくま文庫)

小説のストラテジー (ちくま文庫)

道具

私は原稿用紙を買ってそれで書いている。

コクヨ 原稿用紙A4横書き20×20罫色緑50枚入り ケ-75N

コクヨ 原稿用紙A4横書き20×20罫色緑50枚入り ケ-75N

これは横書き用のやつだけど、あえて縦に使っている。縦書き用のやつは真ん中に変な空白があって気持ち悪いんだよね。 万年筆での書き味もいままで触った紙で2番目ぐらいに良い。*2

原稿用紙だと、パソコンで書くときのように延々と修正するできない。できるのはちょっとした修正だけ、でなければ紙が真っ黒になってしまう。気に入らなければ書き直す。

よってできることは、捨てるか前に進むしかない。

私は人生で「小説書きてえ〜〜」となったときが何度かあったけれど、原稿用紙を導入した今回まで、一度もうまくいったことがなかった。原稿用紙はすごい。

多分手書きの方が性に合っていたんだと思う。PCのエディタの空白は切れ目がなくて辛かった。原稿用紙は400字書くたびにめくるという作業があって、これも脳にいい感じがする。手書きのほうが肩の運動にもなるし、作家みたいでかっこいい。PCに写すのはだるいけど……。

書いたもの

そういうことを考えながら色々書いた。わけわからないのもたくさんできたけど、同居人が出て来るこれはちょっとわけわかるし、時間を描けたような気がする(今の私は時間を信頼しているので、もっと書いてればもっとうまく書けるようになるような気すらしている!) 大した冒険はないが雨の中花火をするか迷ったりはする。

kakuyomu.jp

*1:文字でも、日本語は漢字があるからいいけど、アルファベット圏では26文字程度の文字を見て、これだけしか文字がないのか……と思ったりするんだろうか

*2:一番描き味がいいのはアピカのプロジェクトペーパーだと思う

「どう命を取り押さえるかだよね」『吉増剛造自伝 素手で焔をつかみとれ!』

どう命を取り押さえるかだよね

(『吉増剛造自伝 素手で焔をつかみとれ!』kindle版 位置1065)

焦らなくてもいいとよく言われる。

焦らなくてもいい、焦ってもどうしようもないし、事故が増えるだけだし、早死する。まあ正しい。毎日こんなことしてていいんだろうかと焦っているよりは、焦ってなくて毎日同じ場所に通ってなんやらしている方が、日々を暮らすには都合がいい。

しかしこの吉増剛造という人はどうだろうか。非常時性と本人は言っているが、焦ったままで、勢いで、力でしかないような詩を残し、77歳になって愉快な自伝を残している。

紋切り型のぺらぺらの言葉より、こっちの自伝の言葉の方が、もしかすると救いになるかもしれない。自分の魂に申し訳がないと、焦ったままで生きている人だから。

読んだほうがいい人

  • 自分が30まで生き延びれるか不安に思っている人
  • とにかく辛い人
  • いつも謎の焦りを感じている人

この本について

この本は、吉増剛造という人の自伝で、本人が人生を振り返って語るインタビューの形式で書かれている。

吉増剛造という人は詩人で、とにかく切迫感のある詩を書く。

下に引用するが、とにかくその音の響きを感じてみてほしい。

黄金 詩篇

おれは署名した

夢…… と ペンで額に彫りこむように

あとは純白、 透明 あとは純白

完璧な自由

ああ 下北沢裂くべし、下北沢不吉、 日常久しく恐怖が芽生える、 なぜ下北沢、 なぜ

早朝はモーツァルト

信じられないようなしぐさでシーツに恋愛詩を書く

あとは純白、透明

完璧な自由

純白の衣つけて死の影像が近づく

純白の列車、単調な旋律

およそ数千の死、数千の扉

恐るべき全身感 おれは感覚を見た! (以下省略)

自伝は時系列順ではない。本人の印象的だった出来事や、考えていたことからどんどん記憶が引き出されるように、思い出して喋っているかのように書かれている。語り口は自然で、実にアッケカランとしている。

幼少期、戦争の頃の話をするときも、

とにかく金はないし、親たちもどうしたらいいかわかんなくて。言ってたもんな、親たちが。戦争の頃はこの子たちが邪魔だから捨てて山へ逃げようかしらなんて考えたのよ、なんて(笑)。捨てられるところだった。ひどいこと言うよな(笑)。*1

と、全編この感じのノリで、晩年まで生き延びた人の持つふしぎな明るさがある。

辛かったころは過ぎ去ったからこそ、こんなにもさっぱりとしていられるんだろうかとも思う。

非常時性、危険な集中

政治性というのがまったくダメ、というわけでもないんですけどね。でもそれよりも、本当に大きなビジョンが得られたなら、非常時性と実存と火の玉性みたいなぎりぎりのところまで行かないと、自分の魂に対して申し訳がないという思いのほうが強いんですよね。*2

吉増剛造の詩のもつ切迫感は一体何なのか。

吉増には、若いころ4年ほど会社員をやった時期がある。詩と講演で食えそうになってスパっとやめたそうだが、当然だろう。

ぎりぎりのところまでいかないと自分の魂に対して申し訳がないなんて言える人が、社会で生きやすいわけがない。

吉増剛造の詩を読んでいると、とにかく詩を書くしかなかったんだ、という、締め切りやら焦燥やらで火の玉のようになって、イタコみたいになって言葉を探すこと。そんな状態でぐわーーっと書くからこそ、たどりつける表現があるように見える。

そしてその集中でもって書かれた詩に、うっかり救われてしまう人は少なくないと思う。

チクセントミハイのいうフロー体験が、集中の最上の形としては有名だ。この状態になると人は物事に完全に入り込み、時間が立つのも忘れて没頭し、その集中の中では全てが上手くいくという。

走り回る子どもは非常に狭い視野のなかで、ただ追いかけっこをすることが面白くて、他のどんな雑念にも惑わされずに飛び回っている。多分、この状態がフローに近い。このフローは多幸感をもたらし、これこそが人生の意味だという人もいる。

しかし、吉増の言っている火の玉みたいな状態は、これとはだいぶ空気が違う。ほんとうのほんとうに集中してしまうことは、たぶん、怖いものなんだと思う。

「書くことのほとんど狂気」「手と耳と目と口とで、ある特殊な、シャーマンよりももう少し進んだ状態に持っていく」*3と本人は言っているが、多分もっと昔の人はミューズ(詩の女神)が降りたとかそういう言い方をしたんだろうと思う。

ニーチェの言う、「深淵を覗き込むものは、用心するが良い。深淵もまた、お前のことを覗き込んでいるのだから」という警句にもあるように、あまりに深い集中は、生命を燃やすような集中は、時に破滅をもたらす。*4

ここに行くまでは良くても、戻ってこれないと疲れてしまうしきつい。狂気の世界だから。

ぎりぎりのところまで行く集中ができるというだけで、私などは羨ましくて仕方がないんだが。でもこれはきっと、狂気に対抗する言語をもっていないといけなくて、頭ぐわーーーとなったときに「彫刻刀が朝狂って立ち上がる」*5みたいな言葉がぽんとでてくれば助かる。出てこないとたぶん戻ってこれない。

でもこれを意図的に起こすこと、その狂気を追い求めているのが吉増の詩で、やっぱりそれはすごいし、安心してひきこもれる場所がないとそれはできなくて、まあこんな奴が会社員を続けられるわけがないな、と思う。

締め切りのたびに非常時だ!と、かあーっと別人のようになってやるみたいなことを続けていたが、晩年にそれ無しで一旦やっていこうと、吉本隆明の文章をかなで書き写しまくったり、終わったあともう一度同じ文章を書き写したりするのもいい。

非常時性を保ったまま生き延びる

やっぱりこんな火の玉、非常時、なんて言っている人が、こんな歳*6にもなってそれを笑いながら話しているというのが、もう救いでしかありえなくて、

僕なんかはほっといたら恐らく三十幾つで死んでたでしょうね。そういうふうだからさ。だから田村隆一さんがよく言ってたよ、「目つり上がっちゃって、あいつ、マリリアと会わなきゃ死んでるぜ」って(笑)。じつに正確だな。*7

とか、

それでアイオワ大の国際創作科の手伝いなんかを学生でやってたときに僕と出会ったわけね。それでこういう関係になったんだけども、僕はその、頭のいい言葉がよくできるラテン系のそんな人と違って、毒虫みたいにして受動的統合失調症と引きこもりが専門みたいなやつじゃない(笑)。それが詩のエネルギーだったからさ。それが一緒になっちゃった。ほっとけばもう死んじゃってたようなタイプだろうな。それが世界に向かって開くような女の人と一緒になった。それによって僕自身がマリリアさんとの関係で、単純にこの人を利用するというわけじゃなくて、お互いの治外法権というかな、お互いの単身性――独身性と言っちゃいけない。単身性を尊重するような、そういう関係を結果的には築いた。*8

とまたアッケカランと言っているのがまた良い。

マリリアはブラジル人で、6か国語ペラペラでラテン語を教える教師をやっていた歌手で、とにかく外向きのエネルギーにあふれていた人のようで、そんな人と吉増のような「毒虫みたいにして受動的統合失調症と引きこもりが専門みたいなやつ」が一緒になったからこそ、生き延びられたと言っている。

正反対だけどがっちり気が合う人と二人で共同体をつくって、それで一緒に生き延びたっていうのもいい。

そこにはもちろん恋も愛もあったかもしれないが、そこで添い遂げて生き延びてしまえば、そんなに単純なものでもなくなるんだろうなと思う。

吉増剛造展でみたもの

展覧会「声ノマ」に行ったのはこの伝記を読み終える前だったのだが、そこには生原稿を展示しているスペースがあった。

それは例の、晩年の締め切りではない方法で作ったという「怪物君」のものだった。

米粒みたいな字を目を凝らしてよく見ると、原稿の中の・・・に赤字を入れて、・・・・・・にしていた。

点の数、とにかく重要なんだなと、それを見てなぜか嬉しくなったことを覚えている。

晩年になってなお、新しい試みを続けて狂気スレスレの集中をし続けている、そういう存在が生きていてくれていることが嬉しいし、多分そこまで行ければ人生捨てたもんじゃないって言えるんだろうなと思った。

伝記、謎の元気が出るのでぜひ読んでほしい。

吉増剛造詩集 (ハルキ文庫)

吉増剛造詩集 (ハルキ文庫)

*1:位置448

*2:位置1893

*3:位置2595

*4:瞑想もやりすぎると、戻ってこれなくなって危険だという

*5:「朝狂って」の一節

*6:2016年時点で77歳だ

*7:位置2425

*8:位置2350

吉増剛造展「声ノマ」を見に行った

吉増剛造の詩は難解だ。少なくとも、ふつうの文章を読んでいるときと同じ脳の部分を使っていては全然わからない。ただただ、ことばの疾走感とイメージの奔流にやられるしかない。 現代詩は全然わからないし、吉増剛造の詩もその例外ではない。

それでも、なにかわかりたくて展示に足を運んでみた。本当に暑い日だった。

一応予習はしていったのだが、何度読んでもわからないし、本当にはわからないんだろう、という気がしたまま行った展示だった。*1

声ノマ 全身詩人、吉増剛造展 | 東京国立近代美術館

展示は、日記、二重露光の写真、銅板、カセットテープなど音の展示、自筆原稿、映像、怪物くん生原稿、飴屋法水による怪物くんをモチーフにした空間、大野一雄とのコラボレーション映像と、9つのスペースに分かれていた。

現代詩の読み方

わたしは短歌は好きだけど現代詩が全然わからない。

いや、短歌だってわかるかというと分からないが、現代詩って言う物が本当にそれ以上にわからなくて、これは実は適当に書いているんじゃないか、それだったら意味ないじゃないか、(でも吉野弘は好き)みたいな感じだった。

少しわかるようになったのは最近で、これは意味に取り込まれる前の意味を書いているんだ、その勢い、空気、舌触りにひとまず流されればいいんだ、と気づいた。

それは短歌の読み方とあまり変わらなくて、ただ短歌のほうが定形だしその定形をいかに揺さぶるかで評ができるしわからなくても31文字だから繰り返し読める。 詩が読めなかったのはただ単に異質な言葉に乗る体力がなかっただけだった。

詩を書ける人は、むしろ短歌の定形に書かされている気がすると言って定形を嫌う人も多いが、そういう人は自分の中にビートがあるか、ビートを拒んでなお書けるからすごいと思う。

吉増剛造はすごくて、肉筆の原稿も、書いた後に絵の具まみれにされた原稿もあって、文体だけでなく、その書き方、書体までもを詩にしようとしていた。

50年前の日記という希望

日誌のエリアでは20代の日記帳から最近の70代の日記帳までずらっと展示されていたのだが、筆跡がかなり変化していた。

わたしはこの展示が一番好きで、生きていてもいいんだという気になった。本当に。

若いころはノートを大胆に使って、余白も多いし、まだ判読可能だった。 21歳ぐらいのノートには、(メモをとっていないので記憶で言ってしまっている、とっとけばよかった)詩を難解にする、詩を難解にする、意味に寄せすぎて詩はばらばらになっている、詩を難解にする!みたいなことが書いてあるし、28歳ぐらいは、体調が悪いとか、退職願の連発とか書いてあってとてもつらそう。

その後かなり間があいて34歳に飛ぶが、このあたりでかなり字が小さくなっていて、米粒ほどもない字で余白を埋めつくすようにびっしりと書くようになっていた。

これを見て、まず20代のつらそうな感じに、あまり他人事とは思えない共感をした。思考は辛い。仕事も辛い。日記に退職願の連発と書くほど辛い気持ちがよくわかってしまった。しかし彼は生き延びて、その日記を展示できるほど偉大な詩人となった。77歳ともなると28歳なんてもう50年も前だし、公開しても一ミリも恥ずかしくない過去なのではないか? この辛さも過去になり狂気スレスレの作品を生み出す(怪物君わけがわからなすぎてすごかった)疾走する70代になれる日が来るんじゃないか?これはもう希望なんじゃないか?

天才と自分を比べるのはおこがましい感じもするし、さすがにわたしは日記に「退職願の連発」みたいなパンチラインを書けてはいない。言葉との向き合い方もぜんぜん違う。でもやっぱり、これだけの人がつらそうな20代を送っていて、そしていまでも疾走しているというのは、安心するし、つらくても生きていていいんだなと思ったりする。

まとめ

他には音声のエリアで歌うような低い朗読があちこちで流れていて音がくすぐったかったり、映像が怖すぎたり、怪物くんの絵の具がべったりついた部分は奔放にやっているのかと思ったら、制作風景の映像ではかなり丁寧に少しづつ絵の具をぺたぺたやっていて、こっちの狂気の方が強いなと思ったり、生原稿ではマス目を完全に無視してもっともっと小さい字でびっしり書き連ねていたり。

見に行ったことでなにかわかったかというとそんなことはないし、わかるかわからないかで言うと全然わからなかったけど。謎の元気が出る展示会でとても面白かった。

*1:本当は佐々木中との対談が観たかったのだが、席が埋まってしまっていたのでそれは残念。