知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

ねこと考えること --保坂和志『猫に時間の流れる』

最近読んだ本です。

私は小説は苦手であまりたくさん読めないんだけど、保坂和志とか磯崎憲一郎とかの文章は考え事と温度が近いので、あまり疲れないで長いこと読んでいることができる。

保坂和志猫に時間の流れる

猫に時間の流れる (中公文庫)

猫に時間の流れる (中公文庫)

あんまり働かずにぶらぶらしている人が猫の心配ばかりしている本。

私もこの小説みたいな、あまり働かずにぶらぶらして猫や犬の心配をしたり、近所のまたどうやって生活しているかよくわからない人手伝いをしてお礼にご飯をご馳走されたりとかいう生活がしたい。

中編が二つ入っているが、どちらも特にドラマチックな大冒険が起こるわけでもなく、暴れん坊の猫がやってきて、猫は真面目だとか真面目じゃないとかいう話をしたり、病院の敷地で増えた猫を去勢するために捕まえに行ったりなど、日常的といえば日常的なことばかり続く。

しかしそのなかで、なんだか異常に面白い部分がある。

特にたどり着くべき結論もなく人とグダグダ話しているとき、全く有益でもなんでもないはずなのにここに人生の価値のすべてがあるような瞬間がある。 ただの思いつきが勝手に膨らんで行ったりさらっとながされたり。それでも何かがとても面白いような瞬間。その瞬間を小説にするとこんなふうになるんじゃないかと思う。

この作者は本当に猫が好きで、小説論もよく書く。 その小説論では、小説とはものを考えることだと言っていて、確かにこの本でも、ものを考えたり、猫の話をしているときに異常な輝きを放つ一節が出てくる。

中公文庫版11から13ページの、飼い猫パキと野良猫クロシロとの激しいケンカのあと

喧嘩そのものはパキに不利に見えて、実際パキは片方の瞼をひどく傷つけられていた。 「パキ、強かった。パキ、がんばったぞ」 と言って西井が屈みこむと、パキは西井の膝に前足をついて伸び上がり、「ニャアニャア、ニャアニャア、ニャアニャアニャアニャア」と鳴きつづけ、「強かった」「がんばった」と言ってパキに顔を寄せた西井の顎に自分の頬を何度も何度もこすりつけた。まるで小さな子どもが喧嘩の後で涙をこらえて親に憤懣やるかたない気持ちをなんとかしてわかってもらおうとしているように、パキは自分の身にふりかかった椿事を必死に訴えかけていた。 ぼくはパキのことを必要以上に擬人化しているつもりはない。猫の感じていることを正確に説明できる猫用の言葉がないから人間用の言葉を使うしかないのも本当だが、かなりの部分はネコも人間も同じように感じていると考えるほうがいいように思える。 ぼくは、猫がこんなに人間の四つか五つの子どもと変わらない甘え方をするとは思わなかった。西井はパキをなだめるために、「強かった」「がんばった」という言葉を何度も繰り返したが、「かわいそう」あるいはそれに類した意味の言葉は一度も言わなかった。いつもどおり機嫌よく遊んでいたところに突然喧嘩をふっかけられて瞼を怪我したのだから、「かわいそう」とも「こわかった」とも言えるだろうが、西井はたぶん意識してそう言わなかった。

とか、他にも面白い部分はあるが長いのでこれぐらいで。

猫にも子どもにするように気を遣っているようなシーンであるだけなのに、こういう箇所を読むとなぜか泣きそうになる。猫には人の言葉は全てはわからないけど、わかっていることはわかっているし、わかっていないふりをしているだけのことも多いんだろうなと思うし、そう考える人ようなが小説を書いていることがうれしい。

この小説は猫の小説で、猫のことばかり考えている人が出てきて猫について話していたり、超常現象の写真を見せに来るやつに、これを超常現象といって普通の人と切り離して考えるのは良くないんじゃないかとかクソ真面目に話したりとまあそういうシーンばかりで、それがそのとおりだと思うにせよ思わないにせよ、そういう考えがちゃんとある、ということに安心する。

多分焦らないといけないと思って焦っている人ほど読んだほうがいい。

うちにはこのねこがいます。