知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

社会とその外側の夢を見ること

先日同僚が会社をやめた。起業をするという。

彼は何かやりたいことがあるというよりは、起業をするためにやりたいことを探しているようにみえた。多分ゆっくり話せば、社会しんどいよねみたいな話も聞けたんじゃないかと思うけど、まあこれから起業したいって言ってる奴に聞くのもあまり良くない気がしたので聞かなかった。

起業をしたいという気持ちはとても良くわかる。

この社会は疑問を持たないでいられる人間には楽だろうが、そうでない人間には厳しすぎるのだ。

もし、こうでない社会がありえるのだったら。労働に苦しまなくても良い場所にいられる方法はないのか。少なくとも自分が社長になれば、上下関係に悩まされることはないだろうし、自分が働く時間を自分で決められるかもしれない。

ただ、起業をすると、自分がその大変すぎる社会そのものになってしまうような気がして、それだけが不安だ。

社会の内部がちょっと苛酷すぎるということ

私はいま日本で当たり前だとされているだけの量の労働でさえ、人間的に生きるにはちょっと過酷すぎると思うし、もっと毎日好きなことをしていたいとずっと思っている。

働いているのに欲しい本を我慢して食費を心配し続けないといけない生活なんて嫌だし、これだけ技術が発展したのだからもっと人間が暇になったって構わないと思う。

もしかしてこれは甘えなのかもしれないし、私に体力がないだけかもしれない。現在だって十分に豊かなのかもしれない。

それでも、例えばみんな同じ時間に職場についていないといけないという意味不明の理由で満員電車に乗る羽目になったりとか、体力オバケでワーホリで死ぬほど働いている強い強い上司が、いつか手に入ればいいなと言っていたものが産休であったりとか、仕事の後ヘトヘトになって食べるご飯がしょぼかったりだとか、そういうのがもういやだとか考えるのは、そんなに変なことではないような気がする。

こうではない世界や生活がどうにか可能だったりしないだろうか?

だがしかし、こんなことを会社やどこかで口にするのは危険だ。*1

社会の外側への夢を見ること

救われてしまうという絶望

1984年という小説がある。有名すぎるディストピア小説で、読んだよって言う人も、読む必要がないと思っている人もいそうだが、まあ読んでみるとかなりきつい。何がきついかというと、(ここからネタバレ、だがネタバレしても読む価値がある小説はある)

ビッグブラザーが支配する街があって、そこでは食料もしょぼいし、昨日と今日とでメディアが言っていることが違って、それを指摘したり、体制に疑いを持った人は消えてしまう。そこに暮らしていた主人公は、小さいころは世界はそうではなかったことをぼんやりと覚えていて、体制に疑いを持ち、外側、このディストピアではない世界を夢見てさまざまなことを試した挙句、決定的な反体制の証拠が見つかってしまい、逮捕され、拷問を受け、廃人になる。 これだけではまあよくある絶望話だが、その結末で、廃人になった主人公は、なんとそのディストピアの内部で救いのようなものを見てしまうのだ。

それは傍から見れば救いとはいえず、結局廃人の酩酊が見せた夢のようなものかもしれないのだが、そのディストピアの内部では、間違いなく救われているように見えるし、そこに取り込まれてしまった本人にとっては、やっぱり救いでしかない。もう彼はビッグブラザーの言うことがどれだけ矛盾していても疑ったりしないし、その言葉に感激して涙をながすことができる。

暴力は全て平らにする。人間への愛だって知識への愛だって、どんな愛でもそれを裏切らせることができる。

そして全ての愛を破壊しつくされたとしても、そいつは救われてしまうことができる。

この物語では、ビッグ・ブラザーの制度に組み込まれることでビッグ・ブラザーを愛することができてしまい、歓喜の涙だって流すことができてしまう。外側への夢なんて見なくなることによって、救われてしまうことができるのだ。

これはディストピア小説の話だが、多分世界はこのディストピアとそんなに違わない。 拷問される程ではないが、社会不適合者に立派な居場所はそんなにたくさんはない。じわじわと殺されるのがオチかもしれない。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

変なことを変なまま信じて、他の人にも勧める人はたくさん居る。

じゃあ、どうしよう?

「大地に身を捧げ、超人のために生きろ」(ツァラトゥストラ

有名な社会不適合者はたくさん居るが、ニーチェはその中で最もたくさんの人を救っているような気がする。ニーチェの最高傑作といわれる『ツァラトゥストラ』の冒頭では、繰り返し大地と超人という言葉が出てくる。

「大地に身を捧げ、超人のために生きろ」、この大地は要するに当たり前を疑わない人間ばかりの社会の逆で、超人は現在の人間ではなく未来の人間のこととみてしまって間違いはない。『ツァラトゥストラ』にはいいところがたくさんあって、例えば健康は一つではなく千種類もあるんだ、というところや、自分の中の善を大きくしようとするほど、その根っこは闇へ、悪の方へ伸びていくとかすごくいいんだけど、その中でも一番いいのが、現在を否定し、未来のために掟(当たり前、と読み替えてくれてもいい)を作り直すことが最も大地に貢献できることだ、と言った続きで、だがその作り変わった世界で、作り変えてしまった当の自分は生きられないかもしれない、とまでいっているところ。*2

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

どれだけ頑張ってちょっとマシな世界を作っても、ちょっとマシになった世界では過去の掟に縛られた自分は生きられないかもしれない。

うっかり救われないように気をつける

基本的に外への夢を見ない奴が、その環境へ適合していると呼ばれるし、水槽から出たがる魚はすぐに死んでしまうだろう。そんな奴は変な苦しみ方をして早く死んでしまうし苦しい思いをするのは当然なのかもしれない。苦しい思いなんてしたくなかったとしても。

多分歳を取るにつれ、誰も夢なんて見なくなっていったりするだろう。 外のことを忘れたやつから救われるので、外側を見たい我々はうっかり救われないように気をつけなければならない。

多分この世界だって過去の人が頑張って作り上げたはずなんだが、それでも私は苦しくて、そこで生き延びるためにはもう工夫してできることはなんでも(逃げることでも)するしかないし、やるだけやってうまくいったこともいかなかったことも書き残せば誰かの希望になるかもしれない。

それは小説や詩でも絵やらなんやらまあどんな残るものでも同じで、つまり考えや世界の把握の可能性をどこかになにかで書き残すことだけでもう我々は既に何かに勝っている。例えば社会とか忘却とかに。

これからどうするって、なんでも読んでどっかに行って次はもっとうまく失敗するとかしかないんだろう。

ニーチェは社会を変えてしまうことを望んだ(古い石版を壊して新しい掟を作れとツァラトゥストラの最初のほうでずっと繰り返していた)。超人のために新しい掟を作り、そのために働けという。そして、その変わった後の社会では、自分たち古い人間は生きられない、とも。

ニーチェは結局正気でいる間に認められることはなく、自分を待つ栄光を見ずに狂ってしまったが、ニーチェは働いた。あんなに身体が弱いのに自分で自分を健康だということにしたし、「この世にはたったひとつの健康ではなく、幾千もの健康があるのだ」とまで言った。

多分、ニーチェがしたように、きっと救われないのがわかっていながらも、工夫してなにか残していくしかないんだろうと思う。どんな場所に行ったって生きづらいものは生きづらいし、何か読んだり書いたりすることで何かが変わるってことももしかしてありうるかもしれないし、そこにしか希望はないようにも思う。

*1:まじめな人に、もっとまじめに苦しめと怒られてしまうだろう。

*2:記憶を頼りに言っているのでこの通りの書かれ方ではない。もっとかっこ良く言ってた