知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

いつか来る明るい末路について

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うまくいっててもうまくいってなくても、終わりは何にでも訪れる。とか言いながら、よく社の人たちと末路の話をする。(嫌な会社だな!)
未来は怖い。何が起こるかわからないし、わからないものは怖い。
さすがに怖いからと言って何も考えないわけにはいかないので、さまざまな末路を考える。
 
全てが愉快なことになっているのが末路のプランAだ。
プランAでは経営にも仲間にも恵まれていて、でかい自社ビルで夜景を見ながら「あーあ、成金になっちゃった」とか言ってるし、社で作ったものはちょっとだけでも世界を良くしてるし、 私はそこで廊下の植物の配置を気にしてガタガタやったり生ハムを原木からギコギコ切ったりしていて、新入社員に「あの人だれ?用務員?」って言われ、上司はそいつを「あの人社長だよ……?」ってたしなめているみたいなのを想像したりする。
 
けれどそれと同じ重さでプランBというのも存在していて、そっちでは私はたった一人だ。
港区で捨てられたゴミを横取りしてフリマアプリとかで売って暮らしている。
私に金のなかった頃は、拾った燃えないゴミを修理したり磨いたりして家具を揃えていた。その時は多少は情けない気もしたけれど、いまの自分であれば悲しくもなんともないだろうと思う。
 
私にとっては未来があるということ自体が怖い。
10年後の話なんてされたってヘラヘラと「そんなこと言ったって生きてるかすらわからんぜ」と笑ってしまう。
生きてる予定も死んでる予定もないのだから、プランAもプランBもなんの現実味もないという点では同じで、冗談めかさずには口にも出せない。自分に未来があると思うな。未来がわからないことは当然のことであって、それは悲しむことでも辛く思うことでもない。
 
軽率に他者と将来を約束したりする周囲の友人たちのことを羨ましく思いながらも、わからないことをあたかも保証できてるかのように話すのは愚かしさなのではないか? と疑っていた。
けれど、気づいてしまった。
みんな、未来がわからないことぐらいわかってて、それでも「やってる」んだよ。
 
やってる奴らに比べれば私のノーフューチャー志向なんて希望でも絶望ですらもなく、思考停止を隠しておくための気休めに過ぎない。
 
けれど、また冗談めかしてプランBの話をしていたとき、社員の庭石氏がこう言った。
「副社長と君でゴミ拾うことになっても、私がいればきっと楽しい感じになるよ」と。
「さすがにそこまでついてこなくてもいいよ、あとしれっと副社長巻き込まないであげて」と笑ってしまったのだけど、恐ろしいことを言うなあ!とも思った。
私にとっては未来の話は全て等しくほら話であるはずだったのに、真面目に返されてしまったことで、うっそぴょんと逃げられたはずの話は急に現実味を帯びてきてしまった。
 
本当の本当に私に未来なんてあるのか? わからない未来があるということは、未来が無いということより恐ろしいと言うのに?
 
庭石氏が私の未来に灯したのは呪いだ。その明るさで自分の軽薄な生は重さを得てしまった。
けれどもそれは生が続くとしたらいつかは向き合わなければいけないはずの重さで、少なくともどのプランでも私は一人ではないようだった。
 
案外人はこうして未来を呪いで灯されて生き延びるのかもしれない。気は重いね、でもまあやっていくよ、それは仕方のないことなんだ。