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知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

#読書週間 ジョー・ブスケ『傷と出来事』

読書 生存

私の語法が、私のうちで沈黙の権利しか与えられなかったものの全存在であれば良い(p.46)

読書週間は過ぎてしまったけど好きな本の話をしたいのでちょいちょい進めている。

傷と出来事

傷と出来事

第一次世界大戦の戦場で受けた傷で半身不随になり、ベッドに縛り付けられながらも詩人になった人のノート。シュルレアリストたちと仲が良かったらしい。 内容はアフォリズム的な、病床で頭をよぎった断片を書き留めたもののように見える。詩人なので断片もいちいちかっこいい。

好きな箇所はかなりあって、まずエピグラフのチョイスからやばい。これがそれ。*1

あるとき、魂の住処がかげりはじめた。腺組織が異常に発達したトカゲたちはとてつもなく巨大化した。ランプの大いなる灯りが消え去ろうとしていた。巨大トカゲたちは最後の見者だった。深遠な原初の光が途絶えようとするまさにそのとき、トカゲたちはもっと多くを見ておこうと最後の力をふりしぼって立ちあがった。夜明けの青白い光があらわれはじめたところだった。夢の眼は消えさろうとしていた。(エルネスト・ジレ「離宮の祝祭・さえずり」)

ブスケはかなりニーチェっぽいことを言うし、病床で執筆したという点でもニーチェに似ている。ニーチェも詩人だしね。ただニーチェよりは友人に恵まれていそうに見えるし、文体もニーチェの俺の周りのやつは俺を理解しないがお前にだけは伝わると思って書いている、みたいなものとは違う。

理解して欲しいというより、諭しているように見えるし、その文章はドゥルーズにも影響を与えたという。

どこかで私はこう述べた、われわれを真実から致命的に逸脱させるのは、われわれの不注意が招きよせる、あの真実の粗雑な形式以外ににはない、と。私はこう書くべきだったかもしれない。真実の模倣にすぎない、真実のあれら粗雑な形式。(p.14)

こういうことはよくあって、物を考えるときには、どうしてもぽっと思いついた、普段の生活によって思いつかされたような考えに目をくらまされてしまうことが多い。最初に思い浮かぶことは大抵ロクでもない。ちゃんと考えるには邪魔なものは多いし、邪魔なことの方が多く流布していたりもする。陰謀論とかね、わかりやすいし納得いくような気がするけど、真実の粗雑な形式でしかないから。

そういうことが言いたいだったらわかりやすくそう書けよ、と思う向きもあるかもしれないが、こういう風に書くといいことがある。

あえて考えさせる書き方をすることで、人を立ち止まらせて、簡単には伝わらないようなことを伝えることができる。

この本はそういう本で、床についた詩人の見たものを、じっくりじっくり伝えるための速さを持っている。

ブスケはきっと、生を愛することを通じて、自分を襲った運命、傷までをも愛するようになったんだろうと思う。

あまりグダグダ言うのも無粋なのでここからは気に入った部分を引用する。

私の眼にはっきりと映し出されるのは、私の生を鍛え上げた手でなく、その手に握られたハンマーである。年を経るごとに私は生から遠ざかったが、生それ自体が私から遠ざかることはなかった。傷が私の肉に植え付けたのは、私が傷を負った五月の夜に咲くバラである。私は、そのときと変わらない心で感覚し、生きている。

沈黙が海であるような、ああした奇妙な晩のひとつ。まるで沈黙が、もう一つの沈黙を私に近づけたかのように、そこでは、どんな物音も途絶えることがない。こうした晩には、私は自分が生成していたかもしれない人物をおおよそ見抜くことができる。私が必要としていたのは、人々の生が脅威に晒されたときに人びとが示す寛容さであり、さらには脅威それ自体である。(p.21)


われわれが探しているのはわれわれの生ではない。生はわれわれと一緒に探しているのである。(p.59)


人びとを愛するのに、自分と似ていることを理由としてはならない。君の愛を、人びとの生に見合ったものにせよ。人びとをその貧しさから引き剥がしてはならない。彼ら彼女らの貧しさそれ自体を肥沃にせよ。(p.64)


われわれが世界と切り離されているのは、ただ、われわれ自身がそのようにしたからである。傷はこの分離そのものである。われわれが傷つけずに愛することができないのは、われわれが傷ついているからである。(p.105)


真面目さについてのレッスン。文化が危険にさらされるとき、私が憤りを覚えるのは、文化が滅ぼされうるというのに、私の生が奪われないということである。私は自分自身に憤るのである。

私は文化から数々の特権を享受してきた。私自身がその救いになるべきだとは気づかないままに。

愛する者の責任を負うことができなければならない。(p.116)


遅れて到来する者たちのために私は書く。私に似た魂たちとともに。私が死によって傷つけられたように、生それ自体によって傷つけられたと感じるほど純粋な魂たちとともに。われわれの克服し難い苦痛が、われわれ自身のヴィジョンに移行するのを感じるとき、われわれの存在が、われわれの苦痛でないはずがあろうか?

重要なのは、作品に充てられた計測可能な時間の持続ではなく、そうした時間の磁力である。そして努力の継続が時間を擬人化し、時間が人間の生ではなく、その人間自身であって欲しいと思う。(p.134)


人間よ、よく覚えておけ。君はとるにたらない存在ではない。君は君という存在以外の全てである。(p.164)

ブスケはフランスの映画、「アデル・ブルーは熱い色」の中でも引用されているらしい。

私は愚かにも、アデルは意志が弱い女の話だと思っていたのだけど、友達の詳細な解説を聞いて思い直した。*2あれは階級の話で、意志を言葉にするひとと、言葉にはしなくともその意思を生きる人との話らしい。まさに

私の語法が、私のうちで沈黙の権利しか与えられなかったものの全存在であればよい

そのままだ。言葉にしないということだって語法のひとつだし、人間は言葉の中を生きているので、生き様さえも語法になりうる。 もっかい観たいな。


『アデル、ブルーは熱い色』予告編

*1:どれだけ探しても原書がわからなかった。フランス語がめっちゃ読める人教えて欲しい……

*2:読めないって怖い