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知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

ドラッカーのことが大好きな生きづらい世界

最近実家に帰省するたびに、父がドラッカーを貸してくれる。父はきっと社会と上手くやっていけなさそうな私を案じて貸してくれているのだろう。

私は正直いってドラッカーが全然好きではない。大学の時少し読んでみたのだが、全く意味不明だった。しかし勤め人となってしまった今は嫌になるほど理解できる。確かにこれは現代社会の聖典だ。いい意味でも悪い意味でも。

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

聖典としてのドラッカー

ドラッカーはずっと、いかに組織というものを上手く回るようにして、成果を出し、社会に貢献するか、ということを書いてきた。

明らかにこの考えは、企業社会のベースというか前提になっている。なにしろ経営学の祖と呼ばれているのだ。仕事と呼ばれて人が想像し信じているものを知るにはとてもよいチュートリアルになるだろう。

マネジメント、成果、組織といった現代労働市場基本語彙は、ドラッカーから来たもののようだ、読んでいると、結構古い本のはずなのに、現代企業っぽい言葉がポンポン出てきて驚いてしまう。

組織とは、会社やNPOなど、人が集まってなにかする場所すべてを指すという。そう考えるとこのドラッカーのマネジメントは非常に射程範囲が広いものだ。

このマネジメント論に従っていれば、なんとなくうまく行きそうに見えるし、実際それを信じてこの労働社会は動いているように見える。いわば、このマネジメント論は、仕事をうまくやりたい人間のための聖典なのだ。

マネジメントを聖典にして何が悪い、と思う方も居るかもしれない。確かに、ドラッカーは非常にわかりやすい。仕事を上手くやりたい人と望む人にとっては希望とも言えるかもしれない。なぜなら、そこには確かに、ある種の救われ方が書いてあるからだ。しかし、本当にそれで救われてしまっていいのだろうか?

ドラッカーの言ったこと

ドラッカーの言っていることは、基本的に単純でわかりやすい。要するに、自分が何をするか考えるときには、それが成果にどうつながるかを考えろ、ということだ。

組織の目的とは、社会に貢献し、人類の幸福に貢献することであり、成果とはその目的にどれだけ近づけるかを言う。 どのように成果を出して、人から必要とされて、利益を出すかを考えて、働く。これがマネジメントというものの基本だという。

そして重要なのは、この考え方は特別な才能ではなくて、訓練次第で誰にでもできることだとも強調しているということだ。

一応の成果をあげるためでさえ、理解力があり、懸命に働き、知識が有るだけでは十分ではない。成果をあげることはこれとは違う何かである。

 とはいえ、成果をあげるためには特別の才能や、適性や、訓練が必要なわけではない。物事をなすべきものが成果をあげるには、本書で述べているいくつかのことを実行すれば良い。しかもそれらを実行するために生まれつき必要なものはなにもない

(pp. iii .まえがき『ドラッカー名著集 経営者の条件』P. F ドラッカー)

これだけ聞けば、ドラッカーはそんなに変なことを言っていないように聞こえるだろう。確かにそうだ。彼は本当に真摯で、本の中でもたくさんの実例を挙げて、うまくやるための方法をなんとか伝えようとする。ずっと書いてきただけあって文章もとても読みやすい。彼はきっと彼自身の成果を信じている。

ただこの考えを信じて生きることを、私はすごく息苦しく感じてしまう。といっても問題は経営学が存在することではなく、生活が組織生活とそれの準備だけになってしまうことが恐ろしいのだ。ドラッカーの言葉は強く、生活の全てを飲み込むような力を持っている。

誰でも成果をあげられる、という救いと絶望

この、「成果を上げることは誰にでもできる」と言っているのが、ドラッガーのもたらす救いであり絶望でもある。

一度ドラッカーを真に受ければ、成果を出せるいつかの自分の存在を信じて生きることができる。成果さえ出していれば、きっと皆に認められ、それ相応のお金を手にしてもいるだろう! ちなみにドラッカーはguru(導師、教祖)と呼ばれることを嫌っていたらしい。*1 どれだけ彼を信奉したがる人が居たかの現れだろう。

べつにこうして生きることが、いいとか悪いとかではない。希望を持って生きることは悪いことではない。仕事をするときだけでもこのように考えていれば、これを前提にして回っている企業社会では愛されることだろう。

ただ、成果を出していない自分は本当に成果を出す自分の途中の姿でしか無いのか、本当にそれだけを信じていて人生の方は大丈夫なのか。

何もしなくても親は老いるし猫は成果なんて出さないし小説読んだら何も残らなくても最高だしコオロギはコオロギだしトカゲはトカゲだし人間はただの人間だ。生きることには、成果なんて関係なく回っている要素が多すぎる。

確かに成果を出さなければ企業社会で生きるのは難しい。上手く働けなければお金がなくて偽物のヨーグルトを食べる羽目になる。*2そうなれば、人生を成果なんて考えずに生きるどころではなくなるかもしれない。けれども、だからといって全てを成果か否かにしてしまって本当にいいとは、私には思えない。

成果で覆い尽くされた労働市場に飛び込んでお金をとってくること

人生を成果に捧げて、それを疑わなくて済む奴は、そうできない奴と違う恵まれ方をしているだろう。だがそういう奴のふりをしないと生きられないような、たったひとつの目標しかない世界は辛くないか。いまの社会がそうなっていないようにはあまり思えない。働いても働かなくてもいい、ではなく働かないと死んでしまう、では苦しくないものも苦しくなってしまう。

世界を豊かにすることが成果だとは言うが、その成果という考えは豊かな何かを失っているんじゃないか? そのアンチテーゼには本当に人々がみな軽蔑するようななにか、例えば偽物のヨーグルトしか来られないのか。もっとそんなの関係なく生きていられたりできないんだろうか。

労働無しで生きていくのは、いまのところちょっと厳しそうだ。偽物のヨーグルトはもう二度と食べたくない。ならどうやって生き残ればいいのか。これも、まだちょっとわからない。仕事を愛せれば楽になるだろうとは思うが。たぶん、やらないといけないことで覆い尽くされている仕事の代わりに、もっと生活の中でやってもいいしやらなくてもいいことを増やしていくのがいいのかなと考えている。小さくても成果とか言わない息苦しくない場所を確保して、そこでなにか楽しく生きられれば良いのだが。

*1:これはwikipediaに書いてあった

*2:無脂肪ヨーグルトを食べたことがあるだろうか。あれはほんとうにひどい。完全に偽物の味がする