未来を理解しない犬、時制の理解ゆえに虚無と直面する人間
これは「虚無とたたかう」アドベントカレンダー2日目の記事です。
今日は犬と人間を比較することで、虚無について考えてみたい。
犬には果たして虚無はあるだろうか?不安に眠れぬ夜は、焦りは、徒労は。
これから書くのは実家で犬と暮らしていた経験をもとにしたことだ。だから、ここで言及する犬という生き物は、飼われて可愛がられている犬のことであることも断っておかなければならない。
実家の犬のことを考えようとすると、いつも嬉しそうに走っている姿を思い浮かべてしまう。足をよく伸ばしてうきうきと走る。足がみな跳ねて、ぽっかりと浮いているような写真すら撮れる。
犬はそこにあるもののためにしか走らない。痩せるためとか肩こり解消とか、ある企みのために走ろうとは考えない。そこにボールがあるから、綱が解かれたから、走りたいから、走る。もちろん野生の犬は狩りをするだろうし、怯えて逃げることもある。けれども目の前の敵や獲物のためにしか走ることはない、犬は走るために走る。その充溢。
どうしてこんなにも力強く生をやれるのか。
犬は未来を理解しないからだ。
人の感情や言語を理解し共感までする犬だが、約束はできない。将来の夢や展望はない。それが良いとか悪いとかではなく、ただ、ない。だから犬には虚無は、焦りは、徒労は、ない。時間を線で生きているのではなく、ただ瞬間と次の瞬間、点の時間だけを生きている。
待てをしている間でも待たされている瞬間が続いているだけで、犬はオヤツをもらえると信じて真剣に待っている。お気に入りの物を隠すことはあってもそれは今ではないだけの「あとで」のためである。犬にスケジュールはない。だから犬は何もしていない時も焦らない。願望がないから虚無もない。だから人とは喧嘩しない。
私の実家の犬はよく喋る犬で、人が近づくといつも静かに唸り声を上げて話しかける。何を言っているのかはわからないが、何を言いたいのかは大体わかる。「そうだね」と返すとまたぷうと唸る。
この犬の言語に時制はない。逆に言うと、ヒトは言語によって時制を獲得し、人間になった。言語によって未来を理解し、計画や願望によってそれを手繰り寄せられるようになった。(定住と農耕は高度な計画性を要する)けれどもその力は同時に、人々に不安や焦りをもたらすものだった。言語を得た人間は虚無とまで契約してしまった。そして今更手放すには言語を愛おしく思いすぎている。
犬の充溢から見習えることは数多い。ただ瞬間を生きることは美しく、虚無だって感じずに済む。けれど、人がもう犬になれないこともまた本当のことだ。
次回の「虚無とたたかう」アドベントカレンダーは「5000兆円もらってもまだつらい」を予定しています。
2017/12/05追記: 書きました