この記事は「虚無とたたかう」アドベントカレンダー4日目の記事です。
今日は人生におけるレールの話をします。
人生というレールプレイングゲーム
ご存知の通り人生にはレールが存在する。冠婚葬祭ってやつだ。冠は成人、婚は結婚、葬は葬式、祭は死後の祀り。
そこにどれだけ乗ってるかで人生は評価される。いい学校に通ってるか、就職してるか、結婚は、子供は……? レールと年齢の一致度で幸せまで見積もられるわけだ。
このレールは虚無とたたかう古くからの知恵だ。人生で役割を与えられているうちはーー母、父、子、会社員ーー誰かに必要とされているうちは、勇敢に虚無に立ち向かうことができる。
定年後に急に人が老け込むのは、役割を免じられて人生の虚無と向き合うことになるからではないだろうか?
与えられた役割を果たすのは虚無から逃げる最もよい方法だ。逃げるのは恥ではないし。逃げ続ければ苦しむより寿命が先に来る。
レールはクソ
レールは乗っている人には安心を与え、同時にそこに乗らない(乗れない)人は排除することで不安を与える。いや、むしろ排除をすることで安心を作り出している。
順調にレールに乗っていそうな人も、いつ病気や怪我で落ちるかわからないし、いつ遁走したくなるかもわからない。このレールは不安によって人を支配しているのだ。
ついでに言うと男性異性愛者用のレールはやたらしっかりしてる割に、女性用のレールはガタガタだったりする。
ひどいもんだなあ!
けれど一人が腹を立てたところでレール自体を引っこ抜くことはできないし、そもそもレールなしで人は暮らせるんだろうか。それはどんな人間もたった一人で虚無とたたかうようになることだ。
レールがあるからレールに乗る。そいつを誰が責められる?
レールは人生に対する批判能力を鈍らせるためのものではあるけれど、それでもよく考えて自ら乗るやつもいるだろう。
たぶん人が想像する以上に、「戦略的に異性愛者をやっている」人は多い。虚無とたたかうためにそうしている。周囲の圧力のためにそうしていたり、自らの人生の不安とたたかうためにそうしていたりする。そんな奴を笑えるか、虚無とたたかうよすがであるレールを奪えるのか。
こういう人が最もレール自体を変えることには厳しい。無理強いされた選択肢にしろ、選びとってそうしたんだから。そりゃレールのこと守るよ。
私はそういうやつを笑えないし、レール無しで人が虚無に耐えられるとは思えない。
複数のレール、たった一人でないわれわれ
ただいい話があって、このレールは絶対的なものではないということだ。ある制度の中にいると、ただ一つの正しい制度があるように錯覚してしまうけど、世界や歴史を見れば無数の制度、無数のレールが存在することがわかる。
だからまだマシなレールのためにやって行くことも不可能ではなく、野望のあるひとは好きに虚無とたたかえる。必要なのはたった一人で虚無に立ち向かうことでなく、ついでに誰かの新しい轍になることだ。

- 作者: 岸政彦
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 2015/05/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (43件) を見る
私たちが持っている、そうした幸せのイメージは、ときとして、いろいろなかたちで、それが得られない人びとへの暴力となる。たとえば、それを信じたせいで、そこから道が外れてしまったときには、もう対処できないほど手遅れになっていることがある。
しかし、それとは別に、もっと単純に、そうしたイメージ自体がひとを傷つけることがある(岸政彦『断片的なものの社会学』108ページ)
次回の「虚無とたたかう」アドベントカレンダーは「健常というチープな祈り」を予定しています。話が重くなってきたので次回こそ適当に笑える感じにしたい。
2017/12/08 書きました