知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

20歳の頃に書いた抑うつについての文章

どっかに寄稿したやつです

もう手に入らない同人誌のやつなので、ここに再掲しておきます

 

 

 

 

人生に転機があったとすれば、多分そう、去年のことだと思う。
二十歳を目前にしたころ、世界は一旦崩壊した。
ひどく暑い日だった。バイト先のいけすかない上司に叱られ、死にたさを半笑いでごまかしていた帰り道。ふと、頭の中に何かざわめきのようなものが巣食っているのを感じた。それが悲鳴の群れだと気づいてすぐに、世界は恐怖で黒く崩れた。本を開くと絶叫が頭蓋に響いて全く集中できないし、拾った文字もその意味がわからない。人の話が半分も理解できなくなった。考えることが苦痛に変わり、好奇心は猛毒と化した。料理の味がしなくなった。つらくてだるくて起き上がることさえできなくなった。単位なんてとれるわけがなかったし、バイトはいつの間にかクビになっていた。糸の切れた凧のように這いつくばって、目を閉じて思考を止めて、死にたいとリフレインする声から逃れようとしていた。音楽もテレビの音も、呼吸の音も心音も、すべてが呪詛のように耳障りだった。意味も意思もばらばらになった世界で、なにもしないことだけがどんどん上手くなっていった。
活字中毒と絶え間ない思考、そのふたつをアイデンティティとして抱えて十九年間生きてきたつもりだったのに。こんなものまで壊れるなんて、誰が予想できただろう。学費を払ってもらっているのに、レポートも書けない。インプットもアウトプットもできない大学生にどんな価値があるんだ?こんな状態になってまで、どうしてなおまだ生きているんだ?これから先、ずっとこうかもしれないなあ。考えるたびに肺が詰まって、濁った死の姿を延々と思い浮かべていた。
精神科に行った。「あなたは統合失調症です」処方箋には向精神薬・麻薬との文字が黒く光っていた。もらったばかりの苦い薬を水も買わずに飲み込むと、すぐに気分が晴れやかになった。ちっぽけな錠剤一つでどうにかなるもんなのか。人間の精神ってなんなんだろうな。死にたさは小雨になったが、身体は吐き気を訴えていた。
しかし半年も過ごした頃だろうか。一日二錠の錠剤のおかげか、友達も家族も見捨ててくれなかったおかげか。気がつくと世界は淡く色づいて、意味を再び取り戻していた。犬の散歩に出ると、散り遅れた桜が白く光って青い空に映えていて、きれいだと、思った。今更のように、ずっと俯いて歩いていたんだなと気がついた。


成人したはいいものの、この一年、本当に何も出来なかった。留年したし、そこで少し延びた人生の猶予期間でさえ、自分は無価値で死ぬべきなんだ、としか考えていなかった。その間の日記は空白で埋まっている。つらかった。けれど、少しだけ学んだことがあった。


優しい人でありたいと思っていた。人の気持ちがわかる人でありたいと思っていた。けれど、勉強したくても頭に入らないこと、働きたいのに体が動かないこと、そして自分で自分におまえは無価値だと宣告すること。これがどれだけつらいことなのか、あんな状態に成り下がるまで、理解しようとすらしていなかった。


私は間違っていた。完全に間違っていた。生きる意味が見つからないからって、死ぬ必要なんてなかったのだ。


虚勢だろうと何だろうと、生きてていいんだって言い続けること。誰に何言われようと、自分に価値はあるってことにしておくこと。たぶんそれが、この残酷で碌でもない社会で、狂わないで生きるための前提なんだろう。


そこに根拠はない。でも、根拠がないものを信じている人は意外と多い。愛なんてその最たる例で、あいつの目がきれいだから好きだ、とか、優しいから好きなんだ、なんて宣言をいくつ積み上げたところで、その本当には辿り着けはしない。愛に根拠を求めようとして、どれだけ言葉をひねり出そうと、好きだから好きなんだ!という同語反復の宣言に終わるだろう。
宗教だってそうだ。どの宗教書をめくってみても、そこに書いてあるのは「疑うな」のみ。死後に審判があったりすることの根拠なんて書いてないし、解脱の証拠が耳を揃えて並んでいたりもしない。
根拠がないからって疑うのは簡単だ。愛だって宗教だって、生きてていいってことだって。けれど、こうも思うのだ。根拠がないからこそ、前提たりえるのでは、と。
生きる意味なんてわからないし、答えもきっとないのだろう。それでも、人はそれを求めてしまう。それなしでは生きられないとばかりに。だったら、前提は必要なんじゃないか。考えるよりどころとするために。答えのない問いを生き続けるために。
つまりは、生命は無価値だと信じるのも、なにかあると思い込むのも、どうせどちらも無根拠なのだ。ならば楽しい方を選択しよう。世界はどうしようもないし、人間は時に醜い。それでも、きれいなものはあるんだと、人生に生きる価値はあるんだと、そういうことにしておくのだ。