じいさんとわかりあいたかった話
亡くなったじいさんについて
私の祖父(以下じいさん)は、気に入らないことが多い人だった。
私が辛く苦しい就職活動を終えたときも、じいさんは大企業でないことが気に入らなかったようだった。もう就活は終わったと言っても、せめて公務員になれ、と、こちらの話も聞かずに公務員試験の教科書を送りつけてきたのだ。公務員試験の期日も、もう過ぎていたし、こちらもなにも考えないで就職先を選んだわけではなかったのに。
心配してくれていることは理解したけれど、その時はないがしろにされた悲しみが勝った。それ以来、ほとんど話もせず、じいさんからメールが届いても(メールができるじいさんだったのだ)ほぼ全て放置してしまっていた。
そんなじいさんが先日亡くなったのだが、私はその葬式で大泣きしてしまったのだ。じいさんのろくでもない行動に、すっかり失望していたはずなのに!
まあすべてがクソだったわけではない。一緒に旅行に行った時だってあったし、その時は楽しかった。でも、だから泣いたのかというと、多分それは違う。きっと、じいさんと話が通じないまま終わってしまったのが悲しかったのだ。
話ができないとはどういうことなんだ
じいさんと私との間には断絶があった。
この断絶とは、話の前提にしているものの違い、ということだ。同じ就職活動という言葉を使っても、そこでイメージするものはぜんぜん違ったんじゃないか。じいさんには私の人生がヤバいということも、単なる努力不足にしか見えなかったんだろうと思う。*1その人が簡単に乗り越えてしまったり、そもそも感じずに済んだ困難をわかってもらうことは非常に難しい。
前提が違うから話が通じないってのはよくあって、例えば宗教とかでも、三位一体だよ、とか、キリストは十字架から復活したんだよ、とかあるけれど、そんなの無茶だよ、と思う。だから、その教えに救われた人とは話を通じさせられない。でもその前提を飲み込んだ先にしか進めない境地があることも理解している。
さっきのは極端な例かもしれないけれど、男女平等とかの理念でも、信じている人と夢にも思わない人が居て。でも男女は平等だよねってことを飲み込んでもらわないとできない話もある。けれどそれを飲み込ませたり、飲み込んだフリをしてもらって、話を聞いてもらう、なんてことはすごく難しい。なぜならその前提ってのは、人生や誇りにかかわる話かもしれないから。
断絶を越えること
さまざまな断絶
前提が違うこと自体はいい。完全にわかり合うなんて無理だ、人生が違うから。けれど、その違いを、断絶を越えて話ができるかどうかは問題だ。
断絶なんてありふれたもので、人と話していても、なんでそんなことすらわからないんだ!と思ってしまうことぐらい、よくあることだ。*2
けれど、このあまりにも多い断絶のすべてを、わかりあえないね、でやり過ごしてしまうのはあまりにも寂しいんじゃないか。
フランス語しかわからない人に日本語で話しかけても通じないように、明らかに断絶がある相手には、その断絶を越える言葉、文法が必要なんじゃないか。
断絶を越える文法
ある講演会で、セクシュアルマイノリティの権利活動をしている団体の人の話を聞いた。
その団体は、企業などの研修に赴いて、セクシュアルマイノリティの話をする仕事をしていた。その話によると、企業の人には、セクシュアルマイノリティの人々が、どれだけの弾圧を受け、苦しめられているか、みたいな話はあまりしない。
その代わり、企業人にもわかるように話をする。もう当たり前に同性カップルがCMに出たりしている国もあるのに、そういうのがもう当たり前になっている国で差別発言とかしたら、取引先との信用問題になるかもしれないよ。ちゃんと差別について考えることで、リスクを避けられるだけでなく、少数派だけでなく多数派にも生きやすくなるんだよ。と。
話を聴いてもらうには、それはとてもいい方法だろう。実際研修のウケも良いらしい。
けれど、これは結局、ゆるい共存を望むための文法だ。それで手に入れた理解で満足できるのか、というとわからない。ゆるい共存を望んでいないわけではないし、たしかに断絶は越えているけれど。ディスられた悲しみとか、今まで苦しんでいたこととかは届かない。そりゃ確かに、私は私の痛みのことを可愛がりすぎているのかもしれないし、そんなことわかってもらう必要なんてないのかもしれないけれど。
断絶は越えたいけれど、相手に合わせて自分の言いたいことを言わないでおくのはちょっと違う。
けれどここから学べることはもちろんあって、そもそも話を聞いてもらうためには、まず相手に耳を傾けてもらわないといけないということだ。
そう考えると、分かり合えない人間同士で何かを伝える方法として、伝達の型みたいなものには意味があるんじゃないだろうか。型ってのはその企業研修であったり、論文であったり短歌の57577であったりのことで、ジャンルとも言えるだろう。これから研修始めます、とか、ジャズをやります、とか言えば、相手方は、そうか研修か、とかそうかジャズかと言って、受け取る準備ができる。
相手が受け取ることが出来て、なおかつ自分の言いたいことを言える型さえ見つかれば、少なくとも話を聞いてもらえるんじゃないか。
おわりに じいさんと話すには
じいさんには、どうやって話せばよかったのだろう。
じいさんも、なんで大学まで入って大企業に行かなかったんだ、という疑問があったから、突然参考書を送り付けるという行動に出たんではないか。だから、理由を話せば、受け止める準備はあったんじゃないか。説得とかではなく、嘆きでもなく、ただ単にお話、物語として。
物語ってのは相手の理解なんて関係なく進む。そして別の理屈が存在することを見せてしまう。その点で、強い強い形式だ。感情を伝えるのにも向いている!神話が物語の形になっているのも、伝道の時に物語をするのも、論理的な話ができなかったのでなく、ただ単にそうやらなかっただけなのではないかと思う*3
じいさんとはもうお話なんてできないし、したってやっぱりめちゃくちゃな否定を受けて、傷つくことになったかもしれない。けれど、話をしたことは覚えていてもらえたんじゃないか。今ではそう思う。もうできないからこんなこと言えるのかもしれないけどさ。
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