「どう命を取り押さえるかだよね」『吉増剛造自伝 素手で焔をつかみとれ!』
どう命を取り押さえるかだよね
焦らなくてもいいとよく言われる。
焦らなくてもいい、焦ってもどうしようもないし、事故が増えるだけだし、早死する。まあ正しい。毎日こんなことしてていいんだろうかと焦っているよりは、焦ってなくて毎日同じ場所に通ってなんやらしている方が、日々を暮らすには都合がいい。
しかしこの吉増剛造という人はどうだろうか。非常時性と本人は言っているが、焦ったままで、勢いで、力でしかないような詩を残し、77歳になって愉快な自伝を残している。
紋切り型のぺらぺらの言葉より、こっちの自伝の言葉の方が、もしかすると救いになるかもしれない。自分の魂に申し訳がないと、焦ったままで生きている人だから。
- 作者: 吉増剛造
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/04/13
- メディア: 新書
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読んだほうがいい人
- 自分が30まで生き延びれるか不安に思っている人
- とにかく辛い人
- いつも謎の焦りを感じている人
この本について
この本は、吉増剛造という人の自伝で、本人が人生を振り返って語るインタビューの形式で書かれている。
吉増剛造という人は詩人で、とにかく切迫感のある詩を書く。
下に引用するが、とにかくその音の響きを感じてみてほしい。
黄金 詩篇
おれは署名した
夢…… と ペンで額に彫りこむように
あとは純白、 透明 あとは純白
完璧な自由
ああ 下北沢裂くべし、下北沢不吉、 日常久しく恐怖が芽生える、 なぜ下北沢、 なぜ
早朝はモーツァルト
信じられないようなしぐさでシーツに恋愛詩を書く
あとは純白、透明
完璧な自由
純白の衣つけて死の影像が近づく
純白の列車、単調な旋律
およそ数千の死、数千の扉
恐るべき全身感 おれは感覚を見た! (以下省略)
自伝は時系列順ではない。本人の印象的だった出来事や、考えていたことからどんどん記憶が引き出されるように、思い出して喋っているかのように書かれている。語り口は自然で、実にアッケカランとしている。
幼少期、戦争の頃の話をするときも、
とにかく金はないし、親たちもどうしたらいいかわかんなくて。言ってたもんな、親たちが。戦争の頃はこの子たちが邪魔だから捨てて山へ逃げようかしらなんて考えたのよ、なんて(笑)。捨てられるところだった。ひどいこと言うよな(笑)。*1
と、全編この感じのノリで、晩年まで生き延びた人の持つふしぎな明るさがある。
辛かったころは過ぎ去ったからこそ、こんなにもさっぱりとしていられるんだろうかとも思う。
非常時性、危険な集中
政治性というのがまったくダメ、というわけでもないんですけどね。でもそれよりも、本当に大きなビジョンが得られたなら、非常時性と実存と火の玉性みたいなぎりぎりのところまで行かないと、自分の魂に対して申し訳がないという思いのほうが強いんですよね。*2
吉増剛造の詩のもつ切迫感は一体何なのか。
吉増には、若いころ4年ほど会社員をやった時期がある。詩と講演で食えそうになってスパっとやめたそうだが、当然だろう。
ぎりぎりのところまでいかないと自分の魂に対して申し訳がないなんて言える人が、社会で生きやすいわけがない。
吉増剛造の詩を読んでいると、とにかく詩を書くしかなかったんだ、という、締め切りやら焦燥やらで火の玉のようになって、イタコみたいになって言葉を探すこと。そんな状態でぐわーーっと書くからこそ、たどりつける表現があるように見える。
そしてその集中でもって書かれた詩に、うっかり救われてしまう人は少なくないと思う。
チクセントミハイのいうフロー体験が、集中の最上の形としては有名だ。この状態になると人は物事に完全に入り込み、時間が立つのも忘れて没頭し、その集中の中では全てが上手くいくという。
走り回る子どもは非常に狭い視野のなかで、ただ追いかけっこをすることが面白くて、他のどんな雑念にも惑わされずに飛び回っている。多分、この状態がフローに近い。このフローは多幸感をもたらし、これこそが人生の意味だという人もいる。
しかし、吉増の言っている火の玉みたいな状態は、これとはだいぶ空気が違う。ほんとうのほんとうに集中してしまうことは、たぶん、怖いものなんだと思う。
「書くことのほとんど狂気」「手と耳と目と口とで、ある特殊な、シャーマンよりももう少し進んだ状態に持っていく」*3と本人は言っているが、多分もっと昔の人はミューズ(詩の女神)が降りたとかそういう言い方をしたんだろうと思う。
ニーチェの言う、「深淵を覗き込むものは、用心するが良い。深淵もまた、お前のことを覗き込んでいるのだから」という警句にもあるように、あまりに深い集中は、生命を燃やすような集中は、時に破滅をもたらす。*4
ここに行くまでは良くても、戻ってこれないと疲れてしまうしきつい。狂気の世界だから。
ぎりぎりのところまで行く集中ができるというだけで、私などは羨ましくて仕方がないんだが。でもこれはきっと、狂気に対抗する言語をもっていないといけなくて、頭ぐわーーーとなったときに「彫刻刀が朝狂って立ち上がる」*5みたいな言葉がぽんとでてくれば助かる。出てこないとたぶん戻ってこれない。
でもこれを意図的に起こすこと、その狂気を追い求めているのが吉増の詩で、やっぱりそれはすごいし、安心してひきこもれる場所がないとそれはできなくて、まあこんな奴が会社員を続けられるわけがないな、と思う。
締め切りのたびに非常時だ!と、かあーっと別人のようになってやるみたいなことを続けていたが、晩年にそれ無しで一旦やっていこうと、吉本隆明の文章をかなで書き写しまくったり、終わったあともう一度同じ文章を書き写したりするのもいい。
非常時性を保ったまま生き延びる
やっぱりこんな火の玉、非常時、なんて言っている人が、こんな歳*6にもなってそれを笑いながら話しているというのが、もう救いでしかありえなくて、
僕なんかはほっといたら恐らく三十幾つで死んでたでしょうね。そういうふうだからさ。だから田村隆一さんがよく言ってたよ、「目つり上がっちゃって、あいつ、マリリアと会わなきゃ死んでるぜ」って(笑)。じつに正確だな。*7
とか、
それでアイオワ大の国際創作科の手伝いなんかを学生でやってたときに僕と出会ったわけね。それでこういう関係になったんだけども、僕はその、頭のいい言葉がよくできるラテン系のそんな人と違って、毒虫みたいにして受動的統合失調症と引きこもりが専門みたいなやつじゃない(笑)。それが詩のエネルギーだったからさ。それが一緒になっちゃった。ほっとけばもう死んじゃってたようなタイプだろうな。それが世界に向かって開くような女の人と一緒になった。それによって僕自身がマリリアさんとの関係で、単純にこの人を利用するというわけじゃなくて、お互いの治外法権というかな、お互いの単身性――独身性と言っちゃいけない。単身性を尊重するような、そういう関係を結果的には築いた。*8
とまたアッケカランと言っているのがまた良い。
マリリアはブラジル人で、6か国語ペラペラでラテン語を教える教師をやっていた歌手で、とにかく外向きのエネルギーにあふれていた人のようで、そんな人と吉増のような「毒虫みたいにして受動的統合失調症と引きこもりが専門みたいなやつ」が一緒になったからこそ、生き延びられたと言っている。
正反対だけどがっちり気が合う人と二人で共同体をつくって、それで一緒に生き延びたっていうのもいい。
そこにはもちろん恋も愛もあったかもしれないが、そこで添い遂げて生き延びてしまえば、そんなに単純なものでもなくなるんだろうなと思う。
吉増剛造展でみたもの
展覧会「声ノマ」に行ったのはこの伝記を読み終える前だったのだが、そこには生原稿を展示しているスペースがあった。
それは例の、晩年の締め切りではない方法で作ったという「怪物君」のものだった。
米粒みたいな字を目を凝らしてよく見ると、原稿の中の・・・に赤字を入れて、・・・・・・にしていた。
点の数、とにかく重要なんだなと、それを見てなぜか嬉しくなったことを覚えている。
晩年になってなお、新しい試みを続けて狂気スレスレの集中をし続けている、そういう存在が生きていてくれていることが嬉しいし、多分そこまで行ければ人生捨てたもんじゃないって言えるんだろうなと思った。
伝記、謎の元気が出るのでぜひ読んでほしい。
- 作者: 吉増剛造
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