知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

#読書週間 その1 サミュエル・ベケット『いざ最悪の方へ』

ツイッターでタグをふぁぼられた数だけ好きな本の話をするやつをやっていた。まあこういう機会があると、改めて自分の好きな本について考えるから良いんだと思う。

読書週間はたぶんもう過ぎているけど、そんなこと関係なく好きな本の話を勝手にしたいので、補足でもっと本の話をすることにした。140字じゃ足りないし。ツイートは5冊分したけど、あとで見たら7ふぁぼ来てたので7冊やる。

まずはベケットについて。

『いざ最悪の方へ』

いざ最悪の方へ (Le livre de luciole (34))

いざ最悪の方へ (Le livre de luciole (34))

憧れが長く失われていた意識と言われたものが憧れている。そう言い間違えられたもの。いまのところそう言い間違えられた。憧れが失われた長い憧れの窪み。長い無駄な憧れ。そしてあいかわらず憧れている。かすかに無駄にあいかわらず憧れている。なおさらもっとかすかであることに。最もかすかであることに。かすかに無駄に憧れの最少に憧れている。憧れのもっと少なくなりえない最少。あいかわらず静められない無駄な憧れの最少。

すべて消え去るという憧れ。薄暗さが消え去る。虚空が消え去る。憧れが消え去る。無駄な憧れが消え去るという無駄な憧れ。*1

原文のWorstward Ho(いざ最悪の方へ表題作)がリンク先で読めるので、英語ができる人はうれしいね。*2

冒頭のOn. Say on. の時点でかっこいいし、Be said on. Somehow on. Till nohow on. Said nohow on.って続く、on と no の咳き込むような繰り返しが進みづらい地面をずるずる歩いているようでたまらない。

ベケットはやばいんだよ。どうにもできなくても続けるしかないし、続けた結果が、荒野を行くとこまで行ってなんにも残らなくても、なお残されたもの、それは骨かもしれない、でも骨ももうない、身体もない、声ももうない、消え去るしかないけどなお残ってしまう言葉が、その言葉だって擦りきれてしまって切りつめられて消えそうなかすれ声で、そのかすれ声のかすれの部分すら消え去って、それでも、それでもなお言う、ただ残ったものが言う、言い続ける。

そんなのわけがわからないけれど、一度そんなふうに喋る声を聞いてしまったら、もうそれなしでは生きていけない。脳のどんな空白にも残ってぼそぼそと鳴り続けているようなそんな声だ。大いなる破壊のあとでもなお語り続けるための声だ。

この本は晩年の作品が入っていてどの作品も異常に良い。ベケットは若い頃からやばかったけれど、晩年のスタイルは特に凄まじいものがある。読めば頭の中にきっとベケット用の空白ができることだろう。

有名な、次はもっとうまく失敗しろ、との

Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.

もこのWorstward Hoからの言葉。

『また終わるために』

また終わるために (Le livre de luciole (30))

また終わるために (Le livre de luciole (30))

ベケットの話をもう少し続けると、『また終わるために』*3の「遠くに鳥が」も良い。短いので全文載せてしまう。*4

「遠くに鳥が」(『また終わるために』書肆山田 )

瓦礫だらけの町、あいつは一晩中そこを歩いてきた、おれはおりていた、あいつは生け垣につかまりながら、道とどぶのあいだを、なけなしの芝生のうえを、のろのろと小股で、音もたてず、しょっちゅう足を止めて、そう十歩歩くたびに、おどおどと小股の足取りで、息をつく、そして耳をすます、瓦礫だらけの町、おれは生まれるまえからおりていた、そうにきまってる、だが生まれないわけにはいかなかった、それがあいつだった、おれは内側にいた、さあまたあいつは足を止める、これで今晩百回目、距離の見当がつく、これが最後、杖のうえに身をかがめて、おれは内側にいる、おぎゃあと泣いたのはあいつだ、光を見たのはあいつだ、おれは光なんか見なかった、両手を杖の上に重ねて、その両手の上に頭を重ねて、いま息をつき終わった、これで耳をすますことができる、胴体は水平、両脚はがにまた、膝ががたつき、相変わらず古外套、燕尾服の尻尾がこわばって突っ立ち、夜が明ける、あいつはただ目を上げ、目をあけ、目を上げるだけ、その姿は生け垣に溶け込む、遠くに鳥が一羽、一瞬つかまえようとするが、たちまちあいつは消え去る、生きてきたのはあいつだ、おれは生きなかった、生きるに値しない人生、おれのためだ、おれが意識をもってるなんてありえないことだがおれはもってる、だれかがおれのことを探知している、おれたちのことを探知している、そいつはそこにいる、そういうわけなのだ、結局のところおれはそいつを心の眼で見る、そこでおれたちを探知しているのだ、両手と頭が折り重なって、時間がたつ、そいつはじっとしている、おれに声を見つけてくれようとする、おれが声をもってるなんてありえないことだしおれはもってない、そいつはおれに声を見つけてくれるだろう、おれにはおかどちがいの声、だがとりあえずの役には立つだろう、そいつの役には、だがそいつのことはもういい、あのイメージ、折り重なった両手と頭、胴体は水平、肘を突っ張って、目を閉じ、顔をこわばらせて耳をすまし、目は隠れ、顔もすっかり隠れてる、あのイメージ、それだけ、これっぽっちも変わらない、瓦礫だらけの町、夜が退く、あいつも消え去る、おれは内側にいる、あいつはおっちぬだろう、おれのせいで、おれはあいつといっしょに生きてやる、あいつの死を生きてやる、あいつの人生のどんづまりとそれから死にざまを、一歩一歩、現在進行形で、あいつはそれをどうやるのか、おれにはわかるはずもない、いずれわかるさ、一歩一歩、死ぬのはあいつだ、おれは死なない、あいつは骨しか残らない、おれは内側にいる、一粒の砂しか残らない、おれは内側にいる、そうにきまってる。瓦礫だらけの町、あいつは生け垣のむこうへ消え去った、もう足を止めることはないだろう、けっして私と言うことはないだろう、おれのせいだ、あいつはだれにも話しかけないだろう、だれもあいつに話しかけないだろう、あいつは自分にも話しかけないだろう、あいつの頭にはなにも残ってやしない、必要なものはすべておれが与えてやる、あいつの頭が終わるのに必要なものはすべて、けっして私と言わないために、二度と口をあけないために、思い出と嘆きのごちゃまぜ、愛する者たちと耐えがたい青春のごちゃまぜ、前に傾き、杖のまんなかを握ってあいつは野原でつまづく、おれは自分の人生を生きようとした、だめだった、あいつの人生しか生きられなかった、ひどい人生さ、おれのせいだ、あいつはこんなの人生じゃないって言った、だが人生だったし、人生なんだ、おんなじものだ、おれはあいかわらず内側にいる、おんなじさ、あいつの頭にいろんな顔やら、名前やら、場所やらを注ぎ込んで、うんとかきまわしてやる、あいつが終わるのに必要なすべてを、見たくない幻想、見たくないくせに追いかけたい幻想のかずかずを、あいつはおふくろと娼婦の見分けがつかなくなり、おやじをバルフという名前の道路人夫とごっちゃにするだろう、あいつの頭に老いぼれの野良犬を注ぎ込んでやる、痩せこけた老いぼれの野良犬を、あいつがもう一度可愛がってやり、もう一度失うことができるように、瓦礫だらけの町、狂おしい小股の足取り。

これを読んでわかってもらえるように、ベケットの描く主体はだいたい足取りもおぼつかないような老人だ。

長編小説三部作ひとつめの『モロイ』の主人公も自転車で進んでいたら警官にここで寝ないでくださいと言われるようなものすごく足腰の弱い人なんだけど、この弱い主人公は、どれだけふらふらでも、決して自分で自分を消し去ることができないし、死ぬこともできない。

主体は「おれ」と「あいつ」に分裂している。「おれ」が精神で「あいつ」が肉体だと考えてまあ間違いはない。けれどそんなに単純な話でもない。

決して愛すべき身体ではなかった、どうしようもない幻想に振り回され、頭はもう空っぽで、全然思い通りにならないような人生だった。それでも、様々なことを思い出させてやる。終わるために、終わらせるために。「おれ」は「あいつ」から逃れられないし、「あいつ」だって「おれ」から逃れられない。「おれ」は「あいつ」のことを終わらせたがっている、愛しているなんて言えないだろう。それでも全ての記憶をともにしてきた、逃れられない記憶にかき回されて辛いのは「あいつ」だけでなく「おれ」だってそうだろう。それでも、ともにしてきた人生は、時間は、消えないし、消し去ることもできない。

あいつの頭に老いぼれの野良犬を注ぎ込んでやる、痩せこけた老いぼれの野良犬を、あいつがもう一度可愛がってやり、もう一度失うことができるように

もう一度失うことができるように、とはどういうことか? 失うことまで含めて愛なんだよ。

喪失の記憶は苦しいものであるけど、生命は有限なので、どんなものもいずれ必ず失われる。有限の生で何かを愛するということはその喪失までもを愛することだ。

自ら消え去るものができないものが消え去るために、かつて消え去ってしまったものを思い返す。その荒涼の先にベケットが見たのは、死の前にある消え去れなさは、なんて狂おしく人間的なんだろうか。

この背表紙を並べるとベケットの顔になる選集だいぶ面白くないですか?(ほしい)

*1:pp.61 サミュエル・ベケット『いざ最悪の方へ』長島確 訳 書肆山田

*2:謎の解説もついている

*3:ベケットはそんなことばかり言っている

*4:怒られたらやめる、けどベケット知らん人が居たらこれを機に読んだりしてくれるとうれしい

友達が「スウィングバイ」という映画を撮った

友達が「スウィングバイ」という映画を撮った。*1

まず予告を見てくれ。

vimeo.com

あらすじ

どんな話かというと、まず似てない双子が出てくる。街、海辺、人、肉まん、トカゲ、トカゲは冬眠している、そして写真。主人公のまきは写真が好きだが、人を撮るのが怖い。双子の姉のゆいの元彼松田は音信不通で、ある日まきは姉に誘われて家まで様子を見に行く。その時は居なかったが、まきは何度も様子を見に行ってしまう。そしてばったり家の前で松田と鉢合わせてしまう。その時の会話の気まずいかんじがほんとすごくいい感じで、あーーー(このあーーは他人がやっちまったのを見て自分もあーーと思うあのあーーーってやつ)となるのが良い。会話がうまくいかない感じがいいかんじにリアルだ。

その後色々あって、まきと松田はわりと仲良くなる。けれどまきの写真はうまくいかないし彼氏には振られるし散々で、それでも街は相変わらずきれいで人とだって分かり合えない。分かり合えないけれど人は優しい、けど優しいからって救われるわけではない、人は違っている、せめて一緒に肉まんを食べる。そういう映画。

徳のある人間が出会って話すということ

人が何かをまたできるようになるということには、端から見たら自然に治ったように見えても、けっこう間にいろいろあるもので、スペイン人の話を聞いたりトカゲが冬眠してたり、知らん間に心配されまくっていたりする。この映画の主要登場人物三人はみなそれぞれ誠実で、悩んだ末にそういう生き方を選びそういう人間になっている。

まきは悩むし、ゆいは行動するし、松田は出家したい。それで仲良くなったりぶつかりあったりするんだけど、なんかこう、ニーチェなんですよ。ニーチェはあらゆる苦しみは徳のぶつかり合いから起こると言っている。徳っていうのは取り柄のことで、馬の徳は走ること。人間の徳は理性。みんなそれぞれ善いんだよ。それぞれの徳を持っている。だからこそ、ぶつかり合ったり悩んだりする。

そういうのがちゃんと描けていて、ラストシーンの双子の様子とかすごく良くて、ようやく二人の視線が合うんだけど、それで何かが救われるというか。

まあ60分しか無いしいまのところ無料で観られるので観ると!!いいよ!!!

vimeo.com

*1:私は監督兼脚本兼主役の小林とグダグダしながらタイトルを考えたりロケ地を探したりカメラを持たせてもらったりしました

短歌の題詠のネタを考えてくれるbotを作った

短歌は57577の方で、お題にしたがって短歌をつくることを題詠という。

題は漢字の場合もあるけれど、モチーフや何かの縛り(オノマトペを入れる、など)の場合もある。 今回は漢字だけが出てくる。

動機

  • javascriptで何か作りたかった
  • ので自分の作れる範囲で面白いものを考えた
  • 短歌の題を考えてくれるchatbotとか楽しそうだし何かに使えそう

できたもの

これです https://etahapi.github.io/daiei/

題詠のネタ

しくみ

  • jade + sass + js をgulpに食わせてる。この仕組みは前にゲルゲが用意してくれたものを流用してる
  • 中身はよくあるおみくじと、よくあるchatbotを組み合わせた感じ
  • おみくじの中身は常用漢字表
  • 選出基準はひみつ(どうしても気になる人はソース読んで)

考察

  • 題の選出基準はかなり適当だけど、ひとが勝手に題同士の近さや遠さを見出してくれてるので、人間は良い存在だと思った
  • chatbotは押したあとわざと長めに間をとるとそれっぽい
  • 中身おみくじでも見た目つくるとそれっぽい!!!

これからやりたい

  • 近いやつを押したとき、たまに本当にめちゃくちゃ近いやつが出るようにしたい
  • 選んだ題からおすすめの歌集を出してくれたりしてほしい

コードはgithubに上げてあります

GitHub - etahapi/daiei: 題を考えてくれる

鈴を産むひばり

鈴を産むひばり

どうでもいい話しかしたくない

本当にどうでもいい話しかしたくない。

話というのは大体二種類あって、人に話しやすい話と話しづらい話がある。このどうでもいい話というのはとても話しづらい話のことだ。といっても話しづらい話というのは好きな人の話とかエグい性癖の話とかではなく(むしろこれは大いにネタになる話しやすい話だ)、むしろどうでもよすぎて終わりがなくて、聞く側も困ってしまうような話だ。

どうでもいい話がしたい

季節の変わり目はいつもそうなのだけど、なんでもやたら綺麗に見えてしまって困るときがある。 今日見たコンクリ壁に蔦が這わせてあって緑の壁みたいにしていたのがかっこよかったんだけど、通り過ぎるときによく見たら養生テープで蔦が一本一本壁に張り付けてあったとか、工事で職場の外階段に出られなかったんだけど、それで工事のおっちゃんが外階段へのドアにメモを貼っていて、べつにきれいな字でもなかったんだけど、出ないでくださいの出という字だけがやたら大きくなっていたりとか、そういうオチなんてないけどなんとはない良さを検出した話の方が、これこれこうしたら物が売れたとか、成功したとか、悲しいとか嬉しいとかそういう結果がある話よりずっとヤバイし、そういうどうでもいいような話しかしたくないような気になっている。

文学も別にドラマチックでなくていい。ネタバレされててもいい。ネタバレが意味をなさない部分が一番いい。音楽なら平気で同じ曲何度も聞くし、そのたびに同じ歌詞で同じことが起こるわけだけど、だからといってネタバレしたからもう聞かないとかはないし。文でもそんな感じだ。

山の音 (新潮文庫)

山の音 (新潮文庫)

川端康成の山の音を読んだのだけど、それも結果やオチがないような話だから良かった。その本の中では、決定的な瞬間には主人公の老人は関われず、あとで終わってしまったような話ばかり聞く。関わったら関わったでろくな目には遭わず、老人になってさえそういうことは上手くやれない。そういう話なのだが描写がめちゃくちゃ良くて、仔犬がコロコロ転がっているあたりの描写や庭の木の話だけでも延々と読んでいられて、すごい。文豪だけあってそこらへんはよくわかっているのかもしれない。結果やオチのある話は確かに面白いんだけど、そうじゃない話にも面白さはちゃんとある。

どうでもいい話の速度

帰りの地下鉄の駅で、目の前でドアを閉めて電車が出ていったのだけど、そのあとをビニール袋が吸い込まれてついて行った。このときめっちゃヤバイな!風情だな!と思ったんだけど、この共感されなさそうだけどわかってほしい気持ちも、いま袋が飛んでったんだよーーー!!みたいに書いただけだとぜんぜん伝わらなくて、こう書いているあいだも伝わらないし、この「感じ」をほんとうのほんとうに伝えるには原稿用紙何枚必要なんだと書く前から途方に暮れてしまう。けれど分量を書けば伝わるという話ではなくて、分量を書いたときに、その分量分付き合ってきた読者の中に生まれる速度みたいなものが必要だという話だ。

小説を書いていて、ある文を直そうとしたら、その次の文とぜんぜんつながらなくなって、結局その文ごとごっそり消してしまったことがあるんだけど、多分なんにでも流れがあって、細切れにして直したり並べ替えたりできるようなことは大したことは言ってない。

短歌でも、57577の77を入れ替えたりとか、そういうことができる歌はそんなに良くない。しっかりした歌はなんらかの必然性があってそこに言葉を置いている。歌会の評でも、入れ替え可能そうな部分はここは動くねーと言ったりする。

喋り方にはそれぞれ速度があって、全てが必然性のなかにカチッとはまった時、文章に速度が出る。詩とかはやばい。あれは適当に書いているようにみえるときもあるけれど、その言葉選びが必然でしかないことに気づくと、イメージの羅列は速度でしかないものに変わっていく。

言葉そのままの意味のの速度に追いつかれるような意味なんて大したことがないんだ。私は吹き飛んでいく袋を見たとき最高の気分になったけれど、それを書き残す言葉の量が足りなかったのではなく、速度を持たせることができなかったから、きっとほんとうに袋が飛んでいったときのヤバさは伝わらない。

短歌とか俳句とか小説はただの書き言葉に比べて速度があって、起こった出来事のヤバさに追いすがれる語法だ。芭蕉とかすごい。古池や*1とかもう速度でしかない。蛙が飛び込むのやばいよ。自然ってやばいんだよ。しかも古池なんだよ???ちゃんとそれがわかってるからこその速度なんだよ。

ほんとうにどうでもいい話をしたい。もっと速度があればいいのだけど。

*1:古池や蛙飛び込む水の音