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知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

ゴールデンウィークのこと

ヤバいものをつくる

どうして自分は天才たちとは違うのか考えていた。すごいものを作る人は頭のなかでヤバいイメージができているんだろうか。私には作りたいものはあっても、そのイメージの解像度はめちゃくちゃ低い。どちらかというと自分の引いた線に導かれて進めていくことが多い。簡単なものから付け足していく方法が性に合ってるっぽい。

ヤバいイメージから作る場合も、しょぼいイメージから付け足しつつ作る場合も、自分の手の遅さをじれったく思いながら作ることからは逃れられないのだろうな。

自分のウェブサイトをつくった

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ゴールデンウィーク中になんか作りたいなと思って自分のウェブサイトを作った。

上の絵に触ると流れ星が出てくる。スクロールすると街が動く。

これも作っているうちに最初に計画してたものとけっこう違うものになっていった感じ。こういうのを計画通りに作れる人はすごいんだと思う。

これはベースは前に同居人(@kdxu)が作ったgulpなどの設定を頼りに、pugとsassと簡単なjsで書いた。jsって、こういう星を降らすだけとか、スクロールいじるとか、その辺をちょこちょこいじるだけなら簡単で良いんだろうけど、ちゃんとしたものを作ろうとすると大変なんだろうなあ。

ベケット三部作

ゴールデンウィークなのでなにか記憶に残ることをしようと思い、ベケットの長編小説3部作を読むことに決めた。『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけえぬもの』の3つね。

最初は辛かったけれど、読んでいるうちにベケットのノリがわかってきて気持ちよく読めた。けどマロウンの前半は全然面白くない。というかマロウンは微妙。モロイとマロウンは読み終えたけれど、名づけは結局まだ17ページしか読んでない。けれどすでに他のどれよりも面白いことがわかる。

おれは、もうわからん、どうでもいいや。とにかくおれはしゃべらないわけにはいかないんだ。絶対に黙らないぞ。絶対に(『名づけえぬもの』pp.6)

名づけえぬもの

名づけえぬもの

瀬戸夏子は川柳を荒らすな に行った

川柳のイベントに行った。瀬戸夏子は川柳を荒らすなってやつ。普段は川柳の小池正博と、普段は短歌の瀬戸夏子がしゃべるパートと、ミニ句会と、その二人プラス柳本々々と兵藤全郎とのトークで、話は配布された紙に4人の10句選が載っていて、それを中心に進められた。

レジュメの中で気に入ったのはこの辺。

明るさは退却戦のせいだろう 小池正博

月光になりましたのでご安心を 広瀬ちえみ

さあ我の虫酸を君に与えよう 榊陽子

面白かった話

・連作はちょっと出来の良くない歌も含めて連作だから、出来のいい歌だけを引っ張り出して読むみたいなことはしてはいけない、と考えている川柳の人がいるらしい。保坂和志っぽい。保坂和志は小説のつまんなくてちょっとダレる部分も含めて小説の時間であるみたいなことを言っていた気がする。

・川柳は遅れているらしい。川柳は他の詩形、短歌や俳句や現代詩と違って、近代的自我が輸入された時、それに応じた変化がすぐにできなかった。近代的な、白人の、男性的な自我を表現するための発達が遅れてしまったのだ。けれど、よくよく考えればそんな自我ロクでもないし、あったらあったでそれは別の時代遅れでしかないので、その自我の薄さ自体が魅力となりうる、というような話をしていた。

・短歌ってのは景と感情のセットでできてるのが正統派で、それはアララギ的で茂吉の影響が大きいらしいのだ。短歌には感情が要求される! そうすると川柳というのは感情を描かない。ただできごとの描写を放り出して、そこにどんな感情を読み取るかは自由、読み取らなくてもよい、というのが短歌と比べて軽やかなのかなあと思った。

・現代川柳、ちょっと興味が出たので図書館で適当なの借りてみようと思う。こういう時によいアンソロジーが本屋にシュッと並んでるとジャンルとして強いんだけど、なかなかそう簡単にはいかないみたいだ。良いアンソロジーが出しづらいんだよね、とトークショーでも言っていた。サラリーマン川柳みたいな、ちょっと笑える!とか風刺!って感じで川柳は定着してしまっているので、そうでない川柳推しの本は難しいらしい。せつないね。

自分でも川柳を作ってみる。はじめてなのでうまく行ってるかもわからない。文字数が少ないと他の人のとカブってそうで怖いな。

絶対に生きて腸には着かせまい 鳥居萌

T2 Trainspotting2を爆音上映で見に行った

Choose lifeという言葉の重みが、前作とはまた異なって聞こえてくる良い作品だった。音楽もかっこいい。気が向いたらまとまった感想を書くかも。

真実が見える目の話

同居人@kdxu)と話しながら帰っていると、突然変な質問をされた。

――真実が見える眼、ほしくない?

――真実なんて見たら気が狂ってしまうよ

――じゃあちらっと見えるやつ

――余計気が狂いそうだよ

――でもおめでたい真実かもしれないよ

それは面白いと思った。ラカン現実界やら戦争やら暴力やらのせいで、真実ってのは血なまぐさくて直視したものの気を狂わせるようなもので、だから人は幻想や宗教の力でそれを生きるに足るものにしているのだと思っていたけど、もし真実ってやつが、本当に本当の現実ってやつがめちゃくちゃおめでたくて、ただ脳が陰気な我々が陰鬱な幻想を作り上げて、それが隠された真実なのだと思いこんでいるのだとしたらどうだろう。

――真実が見える眼の人に真実がおめでたいか聞けたらどうする?

――本当のことを言うとは限らないからな

――やさしい嘘をつくかもしれないね

会社の居心地が悪いことを友人に話したらいいことを言ってもらえた話

私は会社で労働するってのが全然得意ではない。基本的に毎朝起きてどっか行く生活が向いていない。会社の雰囲気も苦手だ。社内に話せる人は居なくはないが、基本的には自分が浮いているような気がする。

今の会社ってのはゆるめの体育会系で、まだ小さいからか、社長周辺の気の合う仲間でワイワイやってる感じだ。私は別に社長と気が合わない。なぜ私がここに居るんだ?と思うことが多い。

この前も親睦を深めるための合宿があったのだが、私と他の社員との間の溝が可視化されただけだった。

小さい会社だ。私はここでは邪魔者なんじゃないか。なぜ今まで気づかなかったのかわからないが、実は特別支援学級的な待遇を受けているんじゃないか。居心地が悪いのは自分なのではなく周囲の方なのでは? 会社側では人をあまりこちらからクビにはしたくないと言っているが、本当はどう思っているんだか!

友人に相談してみると、友人がいいことを言った。

君が会社に雇われてることに、君が責任を持たなくていいんじゃないかな、というのも、相手は最初に君を雇うことに決めたのだから、君がそこに居るのは君の責任ではない、仕事を干されてるわけでもないのなら、君はそこで必要とされてるってことだよ、自分で自分を貶める必要はないんじゃない?

と、おおよそこのような感じだった。

私はそれにいたく感激した。その通りだよ。別に嫌になればクビにしてもらって構わない、少なくとも肉体は健康だし、こんなことに悩む程度の知能は存在している、ならば行き先は無くはないはずだ。私はいつだって辞められるし、会社はいつだって私をクビにできる。*1

それでも私がいまクビになっていないということは、少なくとも今は私が必要とされているからだ。

これに気づかせてもらって、その日から仕事がそんなに辛くなくなった。浮いてても別にいいんだよ、仕事やってんだから。やることやってたら人間関係は適当でもいいでしょう。人間関係を業務に含めるんだったら人間関係の分も時給を出して貰わないと。

まあ今でも辞めたくないわけではなく、というのも私はどんなことだって辞めて本や字を読み書きし楽器を鳴らして歌を歌って暮らしていたいから、会社だけが特別辞めたいわけではない、それでも、家賃を払い自分の生活費を賄うという今の生活を続けていくにあたって、いいことを聞いたなあと思った。

これは加湿器に入れていい匂いがする液です(街で買うより安い)

*1:いま契約社員なので

息苦しくなく文学をやる

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私はいま短歌をやっていて、もう四年ぐらいになるかなあ、そろそろ短歌のことをよくわかりたい気持ちになってきたので、1月から『現代短歌の鑑賞101』を頭から写経している。

 

現代短歌の鑑賞101 (ハンドブック・シリーズ)

現代短歌の鑑賞101 (ハンドブック・シリーズ)

 

 

学ぶことは多い。人生がいかに作るものに反映するか、してしまうのか、とか、ただの風景を57577の枠に入れることでここまで面白くなるのかーとか、結社に入らずにすごい短歌を作る人もいるものなんだなあ、とか。

 

けれど、最近面白くないゾーンに入ってしまったのか、写していても楽しくなくて、それで短歌のことがわからなくなってしまった。そりゃ今までもわかっていたかというと、そんなことはないのだけど。その面白くないゾーンの面白くない人は、正字(国を國って書いたりする)を使うし、変換候補の奥深く眠っているような見たことない漢字を使った言葉を使うし、文語で書き、七五調でどんどんいく。ぱっと見すごく短歌っぽい!ちゃんと読んでも短歌だねえ、と思う。格調高くもあるんだろうなと思う。

私はその人の短歌を読むことで、風景や感情を短歌に見せる方法がわかった。正字を学び、語彙を増やして、文語で書けるようになれば、私にもこのような短歌っぽい短歌が作れるんだろうと思った。

 

でもそんなこと全然やりたくなかった!

 

正字のことは嫌いではない。語彙だって手持ちの少なさを歯がゆく思ってる、いつか文語もやらないといけないんだろう。それはいい、けど問題は、短歌っぽい題材を選んで短歌っぽく調理してはいどうぞうーんこれはどう見ても短歌ですねおいしい!ってなったとして、それが面白いのか?ということだ。

私はその人の作るものに、短歌っぽいということ以外の何かを見いだせなかったのかもしれない。

でもやっぱ短歌をやるには、やっていくには、そういうのも作れた方がいいんだろうか、友人に話すと、「君はすごくやりたくなさそうだよ、面白くないことはやらなければいいんじゃないかな」と言われた。本当にその通りで、あまりの正論に気分が良くなり、その晩面白くないゾーンを勇気を出してどんどん飛ばし、そして人生が良くなった!

 

 

試行錯誤に漂う

試行錯誤に漂う

 

 

 

その日の前にちょうど保坂和志の本を読み終えていたのだけど、保坂和志はそのような、小説っぽい小説みたいなものに抵抗し続けているのだなあと思う。形式にはそれに期待される書き方みたいなのがあって、小説とかも話に始めがあって終わりがあり、伏線を回収したりする。そんなん当たり前だろ〜って思う人もいるだろうけど、小説の世界はもうちょっと豊かで、少なくともカフカベケットはそんな書き方をあまりしなかった。

 

別にそれっぽいものを作ることは悪くない、けど、それっぽいものの真似を続けてそれっぽくなり続けるのは息苦しくないか。

そう考えると、逆に何が文学、作品を作っているのか、というのが気になってくる。文学みたいな喋りはある。それは書き言葉であり、文体であったりする。でもいまここに書いている日記のようなものや、路上で人が喋っていることや、看板や、広告のトラックから流れるバニラの求人が文学ではないと誰が言えるのか。

 

街のことば (@machi_tweets) | Twitter

 

ツイッターの街のことばとかすごいアカウントで、私はこれが大好きだ。これは街の人々の会話の盗み聞きというか、印象的なことばを流しているのだけど、リプライを送ると詳細を教えてくれる。これがすごい、なんというか、突き放される心地がする。

 みたいなツイートにリプライを飛ばすと、例えば「恵比寿で30代男性が言ってました」とか教えてくれるんだけど、すごくないですか? だってそんなことわかったってその言葉の理解に全く関係してこない。切り出された街の言葉を見た瞬間のなんだよこれ、という感じがぜんぜん消えない。場所や人について知ってもこの言葉の文脈はわからない。気になる気持ちだけが宙づりになって、笑ってしまう。理解をすればすっきりするんだろうけど、きっと永遠にできないね、ということをこんなにも鮮やかに描き出している、すごい。文学か?と思う。

こういうのを見ていると、文学やそうでないかというのは受け取り手の問題なんじゃないかと思ってしまう。絵とかならわかりやすくて、ポロックみたいななんかぐちゃぐちゃしてるものでも、これは有名な作者のやつだよ〜〜って渡されたら、そうか、これはすごい絵なのか!ってなる。それは、渡された人が、芸術として受け取る準備ができていたから。この作者には街の断片も芸術として受け取る準備ができてて、だからこういうのを集められるし、それが面白くて仕方がないのだろうな。

そう思うと、言葉の世界はそんなに息苦しくなくて、自分が本当に使っている言葉で、かっこつけたりしないで何かを書くことも不可能ではないんじゃないかと思う。この文も肩の力を抜いて書いた。

 

 

 

ARIA アリア 譜面台 AMS-30DT 収納ポーチ付属

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写経に使っていた卓上譜面台です。軽いし畳めるので重宝してる

 

 

 

 

 

 

 

じいさんとわかりあいたかった話

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亡くなったじいさんについて

私の祖父(以下じいさん)は、気に入らないことが多い人だった。

私が辛く苦しい就職活動を終えたときも、じいさんは大企業でないことが気に入らなかったようだった。もう就活は終わったと言っても、せめて公務員になれ、と、こちらの話も聞かずに公務員試験の教科書を送りつけてきたのだ。公務員試験の期日も、もう過ぎていたし、こちらもなにも考えないで就職先を選んだわけではなかったのに。

心配してくれていることは理解したけれど、その時はないがしろにされた悲しみが勝った。それ以来、ほとんど話もせず、じいさんからメールが届いても(メールができるじいさんだったのだ)ほぼ全て放置してしまっていた。

そんなじいさんが先日亡くなったのだが、私はその葬式で大泣きしてしまったのだ。じいさんのろくでもない行動に、すっかり失望していたはずなのに!

まあすべてがクソだったわけではない。一緒に旅行に行った時だってあったし、その時は楽しかった。でも、だから泣いたのかというと、多分それは違う。きっと、じいさんと話が通じないまま終わってしまったのが悲しかったのだ。

話ができないとはどういうことなんだ

じいさんと私との間には断絶があった。

この断絶とは、話の前提にしているものの違い、ということだ。同じ就職活動という言葉を使っても、そこでイメージするものはぜんぜん違ったんじゃないか。じいさんには私の人生がヤバいということも、単なる努力不足にしか見えなかったんだろうと思う。*1その人が簡単に乗り越えてしまったり、そもそも感じずに済んだ困難をわかってもらうことは非常に難しい。

前提が違うから話が通じないってのはよくあって、例えば宗教とかでも、三位一体だよ、とか、キリストは十字架から復活したんだよ、とかあるけれど、そんなの無茶だよ、と思う。だから、その教えに救われた人とは話を通じさせられない。でもその前提を飲み込んだ先にしか進めない境地があることも理解している。

さっきのは極端な例かもしれないけれど、男女平等とかの理念でも、信じている人と夢にも思わない人が居て。でも男女は平等だよねってことを飲み込んでもらわないとできない話もある。けれどそれを飲み込ませたり、飲み込んだフリをしてもらって、話を聞いてもらう、なんてことはすごく難しい。なぜならその前提ってのは、人生や誇りにかかわる話かもしれないから。

断絶を越えること

さまざまな断絶

前提が違うこと自体はいい。完全にわかり合うなんて無理だ、人生が違うから。けれど、その違いを、断絶を越えて話ができるかどうかは問題だ。

断絶なんてありふれたもので、人と話していても、なんでそんなことすらわからないんだ!と思ってしまうことぐらい、よくあることだ。*2

けれど、このあまりにも多い断絶のすべてを、わかりあえないね、でやり過ごしてしまうのはあまりにも寂しいんじゃないか。

フランス語しかわからない人に日本語で話しかけても通じないように、明らかに断絶がある相手には、その断絶を越える言葉、文法が必要なんじゃないか。

断絶を越える文法

ある講演会で、セクシュアルマイノリティの権利活動をしている団体の人の話を聞いた。

その団体は、企業などの研修に赴いて、セクシュアルマイノリティの話をする仕事をしていた。その話によると、企業の人には、セクシュアルマイノリティの人々が、どれだけの弾圧を受け、苦しめられているか、みたいな話はあまりしない。

その代わり、企業人にもわかるように話をする。もう当たり前に同性カップルがCMに出たりしている国もあるのに、そういうのがもう当たり前になっている国で差別発言とかしたら、取引先との信用問題になるかもしれないよ。ちゃんと差別について考えることで、リスクを避けられるだけでなく、少数派だけでなく多数派にも生きやすくなるんだよ。と。

話を聴いてもらうには、それはとてもいい方法だろう。実際研修のウケも良いらしい。

けれど、これは結局、ゆるい共存を望むための文法だ。それで手に入れた理解で満足できるのか、というとわからない。ゆるい共存を望んでいないわけではないし、たしかに断絶は越えているけれど。ディスられた悲しみとか、今まで苦しんでいたこととかは届かない。そりゃ確かに、私は私の痛みのことを可愛がりすぎているのかもしれないし、そんなことわかってもらう必要なんてないのかもしれないけれど。

断絶は越えたいけれど、相手に合わせて自分の言いたいことを言わないでおくのはちょっと違う。

けれどここから学べることはもちろんあって、そもそも話を聞いてもらうためには、まず相手に耳を傾けてもらわないといけないということだ。

そう考えると、分かり合えない人間同士で何かを伝える方法として、伝達の型みたいなものには意味があるんじゃないだろうか。型ってのはその企業研修であったり、論文であったり短歌の57577であったりのことで、ジャンルとも言えるだろう。これから研修始めます、とか、ジャズをやります、とか言えば、相手方は、そうか研修か、とかそうかジャズかと言って、受け取る準備ができる。

相手が受け取ることが出来て、なおかつ自分の言いたいことを言える型さえ見つかれば、少なくとも話を聞いてもらえるんじゃないか。

おわりに じいさんと話すには

じいさんには、どうやって話せばよかったのだろう。

じいさんも、なんで大学まで入って大企業に行かなかったんだ、という疑問があったから、突然参考書を送り付けるという行動に出たんではないか。だから、理由を話せば、受け止める準備はあったんじゃないか。説得とかではなく、嘆きでもなく、ただ単にお話、物語として。

物語ってのは相手の理解なんて関係なく進む。そして別の理屈が存在することを見せてしまう。その点で、強い強い形式だ。感情を伝えるのにも向いている!神話が物語の形になっているのも、伝道の時に物語をするのも、論理的な話ができなかったのでなく、ただ単にそうやらなかっただけなのではないかと思う*3

じいさんとはもうお話なんてできないし、したってやっぱりめちゃくちゃな否定を受けて、傷つくことになったかもしれない。けれど、話をしたことは覚えていてもらえたんじゃないか。今ではそう思う。もうできないからこんなこと言えるのかもしれないけどさ。

NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法

NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法

NVCとはノンバイオレントコミュニケーションのこと。ガンジーの孫が序文書いてる。人と傷つけ合わないためのコミュニケーションの方法の本。タイトルちょっと怪しいけど結構よかった。

気になっている本です

atプラス 31

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他者の理解特集らしい

noubrain.hateblo.jp

*1:実際にはそんなにヤバくない、ただ大企業でも公務員でもなかっただけだ

*2:よくあるということは、自分もそう思われてるということだ!

*3:与太話です