知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

じいさんとわかりあいたかった話

f:id:kinakobooster:20170315223102j:plain

亡くなったじいさんについて

私の祖父(以下じいさん)は、気に入らないことが多い人だった。

私が辛く苦しい就職活動を終えたときも、じいさんは大企業でないことが気に入らなかったようだった。もう就活は終わったと言っても、せめて公務員になれ、と、こちらの話も聞かずに公務員試験の教科書を送りつけてきたのだ。公務員試験の期日も、もう過ぎていたし、こちらもなにも考えないで就職先を選んだわけではなかったのに。

心配してくれていることは理解したけれど、その時はないがしろにされた悲しみが勝った。それ以来、ほとんど話もせず、じいさんからメールが届いても(メールができるじいさんだったのだ)ほぼ全て放置してしまっていた。

そんなじいさんが先日亡くなったのだが、私はその葬式で大泣きしてしまったのだ。じいさんのろくでもない行動に、すっかり失望していたはずなのに!

まあすべてがクソだったわけではない。一緒に旅行に行った時だってあったし、その時は楽しかった。でも、だから泣いたのかというと、多分それは違う。きっと、じいさんと話が通じないまま終わってしまったのが悲しかったのだ。

話ができないとはどういうことなんだ

じいさんと私との間には断絶があった。

この断絶とは、話の前提にしているものの違い、ということだ。同じ就職活動という言葉を使っても、そこでイメージするものはぜんぜん違ったんじゃないか。じいさんには私の人生がヤバいということも、単なる努力不足にしか見えなかったんだろうと思う。*1その人が簡単に乗り越えてしまったり、そもそも感じずに済んだ困難をわかってもらうことは非常に難しい。

前提が違うから話が通じないってのはよくあって、例えば宗教とかでも、三位一体だよ、とか、キリストは十字架から復活したんだよ、とかあるけれど、そんなの無茶だよ、と思う。だから、その教えに救われた人とは話を通じさせられない。でもその前提を飲み込んだ先にしか進めない境地があることも理解している。

さっきのは極端な例かもしれないけれど、男女平等とかの理念でも、信じている人と夢にも思わない人が居て。でも男女は平等だよねってことを飲み込んでもらわないとできない話もある。けれどそれを飲み込ませたり、飲み込んだフリをしてもらって、話を聞いてもらう、なんてことはすごく難しい。なぜならその前提ってのは、人生や誇りにかかわる話かもしれないから。

断絶を越えること

さまざまな断絶

前提が違うこと自体はいい。完全にわかり合うなんて無理だ、人生が違うから。けれど、その違いを、断絶を越えて話ができるかどうかは問題だ。

断絶なんてありふれたもので、人と話していても、なんでそんなことすらわからないんだ!と思ってしまうことぐらい、よくあることだ。*2

けれど、このあまりにも多い断絶のすべてを、わかりあえないね、でやり過ごしてしまうのはあまりにも寂しいんじゃないか。

フランス語しかわからない人に日本語で話しかけても通じないように、明らかに断絶がある相手には、その断絶を越える言葉、文法が必要なんじゃないか。

断絶を越える文法

ある講演会で、セクシュアルマイノリティの権利活動をしている団体の人の話を聞いた。

その団体は、企業などの研修に赴いて、セクシュアルマイノリティの話をする仕事をしていた。その話によると、企業の人には、セクシュアルマイノリティの人々が、どれだけの弾圧を受け、苦しめられているか、みたいな話はあまりしない。

その代わり、企業人にもわかるように話をする。もう当たり前に同性カップルがCMに出たりしている国もあるのに、そういうのがもう当たり前になっている国で差別発言とかしたら、取引先との信用問題になるかもしれないよ。ちゃんと差別について考えることで、リスクを避けられるだけでなく、少数派だけでなく多数派にも生きやすくなるんだよ。と。

話を聴いてもらうには、それはとてもいい方法だろう。実際研修のウケも良いらしい。

けれど、これは結局、ゆるい共存を望むための文法だ。それで手に入れた理解で満足できるのか、というとわからない。ゆるい共存を望んでいないわけではないし、たしかに断絶は越えているけれど。ディスられた悲しみとか、今まで苦しんでいたこととかは届かない。そりゃ確かに、私は私の痛みのことを可愛がりすぎているのかもしれないし、そんなことわかってもらう必要なんてないのかもしれないけれど。

断絶は越えたいけれど、相手に合わせて自分の言いたいことを言わないでおくのはちょっと違う。

けれどここから学べることはもちろんあって、そもそも話を聞いてもらうためには、まず相手に耳を傾けてもらわないといけないということだ。

そう考えると、分かり合えない人間同士で何かを伝える方法として、伝達の型みたいなものには意味があるんじゃないだろうか。型ってのはその企業研修であったり、論文であったり短歌の57577であったりのことで、ジャンルとも言えるだろう。これから研修始めます、とか、ジャズをやります、とか言えば、相手方は、そうか研修か、とかそうかジャズかと言って、受け取る準備ができる。

相手が受け取ることが出来て、なおかつ自分の言いたいことを言える型さえ見つかれば、少なくとも話を聞いてもらえるんじゃないか。

おわりに じいさんと話すには

じいさんには、どうやって話せばよかったのだろう。

じいさんも、なんで大学まで入って大企業に行かなかったんだ、という疑問があったから、突然参考書を送り付けるという行動に出たんではないか。だから、理由を話せば、受け止める準備はあったんじゃないか。説得とかではなく、嘆きでもなく、ただ単にお話、物語として。

物語ってのは相手の理解なんて関係なく進む。そして別の理屈が存在することを見せてしまう。その点で、強い強い形式だ。感情を伝えるのにも向いている!神話が物語の形になっているのも、伝道の時に物語をするのも、論理的な話ができなかったのでなく、ただ単にそうやらなかっただけなのではないかと思う*3

じいさんとはもうお話なんてできないし、したってやっぱりめちゃくちゃな否定を受けて、傷つくことになったかもしれない。けれど、話をしたことは覚えていてもらえたんじゃないか。今ではそう思う。もうできないからこんなこと言えるのかもしれないけどさ。

NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法

NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法

NVCとはノンバイオレントコミュニケーションのこと。ガンジーの孫が序文書いてる。人と傷つけ合わないためのコミュニケーションの方法の本。タイトルちょっと怪しいけど結構よかった。

気になっている本です

atプラス 31

atプラス 31

他者の理解特集らしい

noubrain.hateblo.jp

*1:実際にはそんなにヤバくない、ただ大企業でも公務員でもなかっただけだ

*2:よくあるということは、自分もそう思われてるということだ!

*3:与太話です

2016年 知ってよかった概念5つ

今年も色々ありましたね。

ただ振り返るだけだとつまらないので、今年知ってよかった概念を紹介します。

アミノバイタル

アミノバイタル タブレット 120粒入

アミノバイタル タブレット 120粒入

勉強もスポーツも体力を消費するという点では同じなので、必須アミノ酸であるBCAAをとっておくと調子よく勉強できるという話を人から聞いたことがある。

これはすごくて、めっちゃBCAAが入っている。

仕事で疲れて帰ってきてもうやだごはんだるいお風呂入りたくない原稿?明日やるよやだ〜〜〜ってなっているようなときでも、これを飲むと、さてやるかーってなる程度には疲労が取れる。そりゃもう劇的ビフォーアフターってな感じで元気になる。多分私は普段からアミノ酸が足りていないのだと思う。

今年はこれを知ってだいぶ人生がマシになった。

最近はタブレットのやつを気に入って食べている。タブレットはけっこうおいしいし水無しで食べられるから手軽で良い。

類似品が出ててそれも試したけれど、味の素のやつのほうが明らかにおいしいし効果がある感じがする。何が違うんだろう……。本物、あんまり安くないんだけどね。

gifted

ギフテッド - Wikipedia

giftedとは、IQ130超えの人々を指す言葉だ。

私はこれまで、人の知能を数値化するIQと言うものに胡乱なものを感じていたし、古臭い概念だなあと思っていた。IQテストって対策すれば簡単に高い点数取れそうだしさ。 なのでIQが高いと聞いても大した感銘を受けずにいたし、少なくとも私の周りにはIQ自慢をする人もいなかった。*1

そうは思っていたのだが、この人のこのブログを読んで衝撃を受けた。(すごく面白いのでぜひ)

勉強が好きでも、いじめが無くても、学校はトラウマ: 人生茶の如し須く細品せよ

やっぱ桁違いに成長が早くて頭がいい人って居るんだなあというのに感銘を受けるし、IQという尺度は胡散臭くはあっても、訳わかんない天才を引っ張り出す指標にはなっているんだなと思う。

そしてこの国で要求される「健常」ってやつは、頭が良すぎないことすら含まれるのか、とも思う。けっこう絶望的だ。

頭良くても辛いことがあるというか、まあバカのふりをしないと居づらい環境に置かれ、自分の勉強をしないといけないと焦っているのに何周も遅れたお遊びみたいな授業に付き合わされるのなら、そりゃ学校も地獄になるだろう。別に頭がいいからうまく生きられるとかそういうことではなく、ただ「普通」で、それでいて従順な人が生きやすいようにできているだけなのだ。

これは余談だけど、私の2016年は週5の労働に耐えきれず体調を崩し、労働時間は減ったはいいものの、そのせいで金がなくなった年だった。ので単発のバイトをいくつかしていたのだけれど、その中にIQ検査を受けてクオカードをもらう治験があった。

それが私の受けた初めての知能検査的なものだったのだけど、私の結果は、運動音痴であることが数値的にも裏付けされてしまった*2ことを除けばそれほど面白い数値ではなかったし、死ぬほど頭がいいというわけでもなかった。体調が良ければもうちょっと良い数値出たんじゃないかとは思ったけれど。

しかし私程度でもバカのふりをしたりしょうもない周回遅れの授業みたいなのに付き合わされる苦しみはわかる。2歳で字が読めた人はどれほど苦しかったんだろうか。 私は教育関係の仕事をやっているのだけれど、自分が今やっていることがほんとうに良いことなのか。

誰もバカのふりなんてしなくていい世界がいいよ、本当に。

このブログの人は2008年に更新が途切れているけれど、楽しく生きていてくれているといいなあと思う。

workflowy

f:id:kinakobooster:20161223180223p:plain *3

文章を入力するツール。リストをインデントして、どこまでも小リストを作れることが特徴。

メモとか読んだ本の記録や読みたい本リストや野望の下書きやブログの記事を書くのに使っています。アウトラインプロセッサってやつ。

使い方はこの辺を参考にするといいかもしれない

長い文章を書く人のためにアウトラインプロセッサの基本をまとめてみた 読書猿Classic: between / beyond readers

別にわざわざ変なツールを使わなくても、テキストファイルでも字は書けるんだけど、インデントした先を折りたためると想像以上に見通しが良くなるし、このworkflowyってやつはスマホでもいじれてうれしい。アプリは若干使いにくいけれど。

無料版だと月々に作れるリストの個数が250個制限されて地味にプレッシャーなので、適当に人を招待するといい。

私はあまりその機能のいいところを使い切れている気がしないのだけど、なんでも突っ込めるメモツールとして優秀なので喜んで使っています。

WorkFlowy - Organize your brain.

原稿用紙

コクヨ 原稿用紙A4横書き20×20罫色緑50枚入り ケ-75N

コクヨ 原稿用紙A4横書き20×20罫色緑50枚入り ケ-75N

これを使うことで、何年も書くぞ書くぞと思っていた小説が、ついに書けるようになった。

まあただのマス目の書いてある紙なんだけど、文字数カウントを自動でやってくれるようなものだし意外と便利。書き心地もいい。

PCでいいじゃないかと思うかもしれないけれど、原稿用紙は修正は少ししかできないし、どうしてもやり直したければ書き直すしかない。よって、書き進めるための力が働く。これは先に進むためのツールなのだ。

PCよりも肩も凝らないし、目にも優しい。良い概念を知ったものだ。

トカゲ

6月ぐらいからフトアゴヒゲトカゲを飼い始めた。名前は知性という。

それまで素早いトカゲしか見たことがなかったのだけど、このフトアゴヒゲトカゲは砂漠のトカゲで、殆どの時間を止まったまま、日光で身体を暖めて過ごす。素早いのは走る時と虫を取りたいときだけ。

このトカゲは非常に静かな生き物なのだ。

f:id:kinakobooster:20161223180538j:plain

ハムスターや犬などの哺乳類は、起きているときは大体カサカサ動いている。猫だって遊ぶ。常に動き続けることで体温を保ち、世界を把握するのだろう。けれど、そうでない生き方を選んだ種族も居るのだ。

トカゲは、自分に関係ある情報しか把握していないように見える。普段は完全にじっとしているだけだし、多分空腹や眠気はないんじゃないかな。眠いと思ったら既に寝ているし、食べられる状態で食べ物に気づいたらすでにハンティングモードに入っている。リーチ外の虫や、興味がない野菜には全く反応をしない。

哺乳類に生まれた我々とは、生存のスタイルが違うんだろう。

人はトカゲのように生きられるだろうか。あんまり焦ってカサカサしすぎるの、あんまり良くないように思える。

トカゲを飼うと餌の虫も飼うことになるのだけど、虫の生態も見られてよかった。虫もすごくて、生命の根源に近い感じがする。虫は簡単に増えるし、共食いをするし、すぐに死んでしまう。

その先に何があるかを知るわけもないのに、狭い箱から出ようとするし、脱走したあと長いことカーペットの裏などで生き延びていて驚かされることがある。食べられている間も動き続けて、生きることを諦めたりしない。生命の怖いところを集めたような生き物だ。

社会には人間ばっかり居るので、ぜんぜん違う生き物が家に居ると何かのバランスが取れるような気がする。

まとめ

2016年も学ぶことが多い年でしたね。

あなたの知ってよかった概念もぜひ教えてください。

*1:知能がまともにある人ならそんな子供っぽいことはしないかもしれない。

*2:動作性IQと言語性IQの差が30ほどあった。30て

*3:あまり本を読んでいないのがバレてしまう……

#読書週間 ジョー・ブスケ『傷と出来事』

私の語法が、私のうちで沈黙の権利しか与えられなかったものの全存在であれば良い(p.46)

読書週間は過ぎてしまったけど好きな本の話をしたいのでちょいちょい進めている。

傷と出来事

傷と出来事

第一次世界大戦の戦場で受けた傷で半身不随になり、ベッドに縛り付けられながらも詩人になった人のノート。シュルレアリストたちと仲が良かったらしい。 内容はアフォリズム的な、病床で頭をよぎった断片を書き留めたもののように見える。詩人なので断片もいちいちかっこいい。

好きな箇所はかなりあって、まずエピグラフのチョイスからやばい。これがそれ。*1

あるとき、魂の住処がかげりはじめた。腺組織が異常に発達したトカゲたちはとてつもなく巨大化した。ランプの大いなる灯りが消え去ろうとしていた。巨大トカゲたちは最後の見者だった。深遠な原初の光が途絶えようとするまさにそのとき、トカゲたちはもっと多くを見ておこうと最後の力をふりしぼって立ちあがった。夜明けの青白い光があらわれはじめたところだった。夢の眼は消えさろうとしていた。(エルネスト・ジレ「離宮の祝祭・さえずり」)

ブスケはかなりニーチェっぽいことを言うし、病床で執筆したという点でもニーチェに似ている。ニーチェも詩人だしね。ただニーチェよりは友人に恵まれていそうに見えるし、文体もニーチェの俺の周りのやつは俺を理解しないがお前にだけは伝わると思って書いている、みたいなものとは違う。

理解して欲しいというより、諭しているように見えるし、その文章はドゥルーズにも影響を与えたという。

どこかで私はこう述べた、われわれを真実から致命的に逸脱させるのは、われわれの不注意が招きよせる、あの真実の粗雑な形式以外ににはない、と。私はこう書くべきだったかもしれない。真実の模倣にすぎない、真実のあれら粗雑な形式。(p.14)

こういうことはよくあって、物を考えるときには、どうしてもぽっと思いついた、普段の生活によって思いつかされたような考えに目をくらまされてしまうことが多い。最初に思い浮かぶことは大抵ロクでもない。ちゃんと考えるには邪魔なものは多いし、邪魔なことの方が多く流布していたりもする。陰謀論とかね、わかりやすいし納得いくような気がするけど、真実の粗雑な形式でしかないから。

そういうことが言いたいだったらわかりやすくそう書けよ、と思う向きもあるかもしれないが、こういう風に書くといいことがある。

あえて考えさせる書き方をすることで、人を立ち止まらせて、簡単には伝わらないようなことを伝えることができる。

この本はそういう本で、床についた詩人の見たものを、じっくりじっくり伝えるための速さを持っている。

ブスケはきっと、生を愛することを通じて、自分を襲った運命、傷までをも愛するようになったんだろうと思う。

あまりグダグダ言うのも無粋なのでここからは気に入った部分を引用する。

私の眼にはっきりと映し出されるのは、私の生を鍛え上げた手でなく、その手に握られたハンマーである。年を経るごとに私は生から遠ざかったが、生それ自体が私から遠ざかることはなかった。傷が私の肉に植え付けたのは、私が傷を負った五月の夜に咲くバラである。私は、そのときと変わらない心で感覚し、生きている。

沈黙が海であるような、ああした奇妙な晩のひとつ。まるで沈黙が、もう一つの沈黙を私に近づけたかのように、そこでは、どんな物音も途絶えることがない。こうした晩には、私は自分が生成していたかもしれない人物をおおよそ見抜くことができる。私が必要としていたのは、人々の生が脅威に晒されたときに人びとが示す寛容さであり、さらには脅威それ自体である。(p.21)


われわれが探しているのはわれわれの生ではない。生はわれわれと一緒に探しているのである。(p.59)


人びとを愛するのに、自分と似ていることを理由としてはならない。君の愛を、人びとの生に見合ったものにせよ。人びとをその貧しさから引き剥がしてはならない。彼ら彼女らの貧しさそれ自体を肥沃にせよ。(p.64)


われわれが世界と切り離されているのは、ただ、われわれ自身がそのようにしたからである。傷はこの分離そのものである。われわれが傷つけずに愛することができないのは、われわれが傷ついているからである。(p.105)


真面目さについてのレッスン。文化が危険にさらされるとき、私が憤りを覚えるのは、文化が滅ぼされうるというのに、私の生が奪われないということである。私は自分自身に憤るのである。

私は文化から数々の特権を享受してきた。私自身がその救いになるべきだとは気づかないままに。

愛する者の責任を負うことができなければならない。(p.116)


遅れて到来する者たちのために私は書く。私に似た魂たちとともに。私が死によって傷つけられたように、生それ自体によって傷つけられたと感じるほど純粋な魂たちとともに。われわれの克服し難い苦痛が、われわれ自身のヴィジョンに移行するのを感じるとき、われわれの存在が、われわれの苦痛でないはずがあろうか?

重要なのは、作品に充てられた計測可能な時間の持続ではなく、そうした時間の磁力である。そして努力の継続が時間を擬人化し、時間が人間の生ではなく、その人間自身であって欲しいと思う。(p.134)


人間よ、よく覚えておけ。君はとるにたらない存在ではない。君は君という存在以外の全てである。(p.164)

ブスケはフランスの映画、「アデル・ブルーは熱い色」の中でも引用されているらしい。

私は愚かにも、アデルは意志が弱い女の話だと思っていたのだけど、友達の詳細な解説を聞いて思い直した。*2あれは階級の話で、意志を言葉にするひとと、言葉にはしなくともその意思を生きる人との話らしい。まさに

私の語法が、私のうちで沈黙の権利しか与えられなかったものの全存在であればよい

そのままだ。言葉にしないということだって語法のひとつだし、人間は言葉の中を生きているので、生き様さえも語法になりうる。 もっかい観たいな。


『アデル、ブルーは熱い色』予告編

*1:どれだけ探しても原書がわからなかった。フランス語がめっちゃ読める人教えて欲しい……

*2:読めないって怖い

#読書週間 その1 サミュエル・ベケット『いざ最悪の方へ』

ツイッターでタグをふぁぼられた数だけ好きな本の話をするやつをやっていた。まあこういう機会があると、改めて自分の好きな本について考えるから良いんだと思う。

読書週間はたぶんもう過ぎているけど、そんなこと関係なく好きな本の話を勝手にしたいので、補足でもっと本の話をすることにした。140字じゃ足りないし。ツイートは5冊分したけど、あとで見たら7ふぁぼ来てたので7冊やる。

まずはベケットについて。

『いざ最悪の方へ』

いざ最悪の方へ (Le livre de luciole (34))

いざ最悪の方へ (Le livre de luciole (34))

憧れが長く失われていた意識と言われたものが憧れている。そう言い間違えられたもの。いまのところそう言い間違えられた。憧れが失われた長い憧れの窪み。長い無駄な憧れ。そしてあいかわらず憧れている。かすかに無駄にあいかわらず憧れている。なおさらもっとかすかであることに。最もかすかであることに。かすかに無駄に憧れの最少に憧れている。憧れのもっと少なくなりえない最少。あいかわらず静められない無駄な憧れの最少。

すべて消え去るという憧れ。薄暗さが消え去る。虚空が消え去る。憧れが消え去る。無駄な憧れが消え去るという無駄な憧れ。*1

原文のWorstward Ho(いざ最悪の方へ表題作)がリンク先で読めるので、英語ができる人はうれしいね。*2

冒頭のOn. Say on. の時点でかっこいいし、Be said on. Somehow on. Till nohow on. Said nohow on.って続く、on と no の咳き込むような繰り返しが進みづらい地面をずるずる歩いているようでたまらない。

ベケットはやばいんだよ。どうにもできなくても続けるしかないし、続けた結果が、荒野を行くとこまで行ってなんにも残らなくても、なお残されたもの、それは骨かもしれない、でも骨ももうない、身体もない、声ももうない、消え去るしかないけどなお残ってしまう言葉が、その言葉だって擦りきれてしまって切りつめられて消えそうなかすれ声で、そのかすれ声のかすれの部分すら消え去って、それでも、それでもなお言う、ただ残ったものが言う、言い続ける。

そんなのわけがわからないけれど、一度そんなふうに喋る声を聞いてしまったら、もうそれなしでは生きていけない。脳のどんな空白にも残ってぼそぼそと鳴り続けているようなそんな声だ。大いなる破壊のあとでもなお語り続けるための声だ。

この本は晩年の作品が入っていてどの作品も異常に良い。ベケットは若い頃からやばかったけれど、晩年のスタイルは特に凄まじいものがある。読めば頭の中にきっとベケット用の空白ができることだろう。

有名な、次はもっとうまく失敗しろ、との

Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.

もこのWorstward Hoからの言葉。

『また終わるために』

また終わるために (Le livre de luciole (30))

また終わるために (Le livre de luciole (30))

ベケットの話をもう少し続けると、『また終わるために』*3の「遠くに鳥が」も良い。短いので全文載せてしまう。*4

「遠くに鳥が」(『また終わるために』書肆山田 )

瓦礫だらけの町、あいつは一晩中そこを歩いてきた、おれはおりていた、あいつは生け垣につかまりながら、道とどぶのあいだを、なけなしの芝生のうえを、のろのろと小股で、音もたてず、しょっちゅう足を止めて、そう十歩歩くたびに、おどおどと小股の足取りで、息をつく、そして耳をすます、瓦礫だらけの町、おれは生まれるまえからおりていた、そうにきまってる、だが生まれないわけにはいかなかった、それがあいつだった、おれは内側にいた、さあまたあいつは足を止める、これで今晩百回目、距離の見当がつく、これが最後、杖のうえに身をかがめて、おれは内側にいる、おぎゃあと泣いたのはあいつだ、光を見たのはあいつだ、おれは光なんか見なかった、両手を杖の上に重ねて、その両手の上に頭を重ねて、いま息をつき終わった、これで耳をすますことができる、胴体は水平、両脚はがにまた、膝ががたつき、相変わらず古外套、燕尾服の尻尾がこわばって突っ立ち、夜が明ける、あいつはただ目を上げ、目をあけ、目を上げるだけ、その姿は生け垣に溶け込む、遠くに鳥が一羽、一瞬つかまえようとするが、たちまちあいつは消え去る、生きてきたのはあいつだ、おれは生きなかった、生きるに値しない人生、おれのためだ、おれが意識をもってるなんてありえないことだがおれはもってる、だれかがおれのことを探知している、おれたちのことを探知している、そいつはそこにいる、そういうわけなのだ、結局のところおれはそいつを心の眼で見る、そこでおれたちを探知しているのだ、両手と頭が折り重なって、時間がたつ、そいつはじっとしている、おれに声を見つけてくれようとする、おれが声をもってるなんてありえないことだしおれはもってない、そいつはおれに声を見つけてくれるだろう、おれにはおかどちがいの声、だがとりあえずの役には立つだろう、そいつの役には、だがそいつのことはもういい、あのイメージ、折り重なった両手と頭、胴体は水平、肘を突っ張って、目を閉じ、顔をこわばらせて耳をすまし、目は隠れ、顔もすっかり隠れてる、あのイメージ、それだけ、これっぽっちも変わらない、瓦礫だらけの町、夜が退く、あいつも消え去る、おれは内側にいる、あいつはおっちぬだろう、おれのせいで、おれはあいつといっしょに生きてやる、あいつの死を生きてやる、あいつの人生のどんづまりとそれから死にざまを、一歩一歩、現在進行形で、あいつはそれをどうやるのか、おれにはわかるはずもない、いずれわかるさ、一歩一歩、死ぬのはあいつだ、おれは死なない、あいつは骨しか残らない、おれは内側にいる、一粒の砂しか残らない、おれは内側にいる、そうにきまってる。瓦礫だらけの町、あいつは生け垣のむこうへ消え去った、もう足を止めることはないだろう、けっして私と言うことはないだろう、おれのせいだ、あいつはだれにも話しかけないだろう、だれもあいつに話しかけないだろう、あいつは自分にも話しかけないだろう、あいつの頭にはなにも残ってやしない、必要なものはすべておれが与えてやる、あいつの頭が終わるのに必要なものはすべて、けっして私と言わないために、二度と口をあけないために、思い出と嘆きのごちゃまぜ、愛する者たちと耐えがたい青春のごちゃまぜ、前に傾き、杖のまんなかを握ってあいつは野原でつまづく、おれは自分の人生を生きようとした、だめだった、あいつの人生しか生きられなかった、ひどい人生さ、おれのせいだ、あいつはこんなの人生じゃないって言った、だが人生だったし、人生なんだ、おんなじものだ、おれはあいかわらず内側にいる、おんなじさ、あいつの頭にいろんな顔やら、名前やら、場所やらを注ぎ込んで、うんとかきまわしてやる、あいつが終わるのに必要なすべてを、見たくない幻想、見たくないくせに追いかけたい幻想のかずかずを、あいつはおふくろと娼婦の見分けがつかなくなり、おやじをバルフという名前の道路人夫とごっちゃにするだろう、あいつの頭に老いぼれの野良犬を注ぎ込んでやる、痩せこけた老いぼれの野良犬を、あいつがもう一度可愛がってやり、もう一度失うことができるように、瓦礫だらけの町、狂おしい小股の足取り。

これを読んでわかってもらえるように、ベケットの描く主体はだいたい足取りもおぼつかないような老人だ。

長編小説三部作ひとつめの『モロイ』の主人公も自転車で進んでいたら警官にここで寝ないでくださいと言われるようなものすごく足腰の弱い人なんだけど、この弱い主人公は、どれだけふらふらでも、決して自分で自分を消し去ることができないし、死ぬこともできない。

主体は「おれ」と「あいつ」に分裂している。「おれ」が精神で「あいつ」が肉体だと考えてまあ間違いはない。けれどそんなに単純な話でもない。

決して愛すべき身体ではなかった、どうしようもない幻想に振り回され、頭はもう空っぽで、全然思い通りにならないような人生だった。それでも、様々なことを思い出させてやる。終わるために、終わらせるために。「おれ」は「あいつ」から逃れられないし、「あいつ」だって「おれ」から逃れられない。「おれ」は「あいつ」のことを終わらせたがっている、愛しているなんて言えないだろう。それでも全ての記憶をともにしてきた、逃れられない記憶にかき回されて辛いのは「あいつ」だけでなく「おれ」だってそうだろう。それでも、ともにしてきた人生は、時間は、消えないし、消し去ることもできない。

あいつの頭に老いぼれの野良犬を注ぎ込んでやる、痩せこけた老いぼれの野良犬を、あいつがもう一度可愛がってやり、もう一度失うことができるように

もう一度失うことができるように、とはどういうことか? 失うことまで含めて愛なんだよ。

喪失の記憶は苦しいものであるけど、生命は有限なので、どんなものもいずれ必ず失われる。有限の生で何かを愛するということはその喪失までもを愛することだ。

自ら消え去るものができないものが消え去るために、かつて消え去ってしまったものを思い返す。その荒涼の先にベケットが見たのは、死の前にある消え去れなさは、なんて狂おしく人間的なんだろうか。

この背表紙を並べるとベケットの顔になる選集だいぶ面白くないですか?(ほしい)

*1:pp.61 サミュエル・ベケット『いざ最悪の方へ』長島確 訳 書肆山田

*2:謎の解説もついている

*3:ベケットはそんなことばかり言っている

*4:怒られたらやめる、けどベケット知らん人が居たらこれを機に読んだりしてくれるとうれしい

友達が「スウィングバイ」という映画を撮った

友達が「スウィングバイ」という映画を撮った。*1

まず予告を見てくれ。

vimeo.com

あらすじ

どんな話かというと、まず似てない双子が出てくる。街、海辺、人、肉まん、トカゲ、トカゲは冬眠している、そして写真。主人公のまきは写真が好きだが、人を撮るのが怖い。双子の姉のゆいの元彼松田は音信不通で、ある日まきは姉に誘われて家まで様子を見に行く。その時は居なかったが、まきは何度も様子を見に行ってしまう。そしてばったり家の前で松田と鉢合わせてしまう。その時の会話の気まずいかんじがほんとすごくいい感じで、あーーー(このあーーは他人がやっちまったのを見て自分もあーーと思うあのあーーーってやつ)となるのが良い。会話がうまくいかない感じがいいかんじにリアルだ。

その後色々あって、まきと松田はわりと仲良くなる。けれどまきの写真はうまくいかないし彼氏には振られるし散々で、それでも街は相変わらずきれいで人とだって分かり合えない。分かり合えないけれど人は優しい、けど優しいからって救われるわけではない、人は違っている、せめて一緒に肉まんを食べる。そういう映画。

徳のある人間が出会って話すということ

人が何かをまたできるようになるということには、端から見たら自然に治ったように見えても、けっこう間にいろいろあるもので、スペイン人の話を聞いたりトカゲが冬眠してたり、知らん間に心配されまくっていたりする。この映画の主要登場人物三人はみなそれぞれ誠実で、悩んだ末にそういう生き方を選びそういう人間になっている。

まきは悩むし、ゆいは行動するし、松田は出家したい。それで仲良くなったりぶつかりあったりするんだけど、なんかこう、ニーチェなんですよ。ニーチェはあらゆる苦しみは徳のぶつかり合いから起こると言っている。徳っていうのは取り柄のことで、馬の徳は走ること。人間の徳は理性。みんなそれぞれ善いんだよ。それぞれの徳を持っている。だからこそ、ぶつかり合ったり悩んだりする。

そういうのがちゃんと描けていて、ラストシーンの双子の様子とかすごく良くて、ようやく二人の視線が合うんだけど、それで何かが救われるというか。

まあ60分しか無いしいまのところ無料で観られるので観ると!!いいよ!!!

vimeo.com

*1:私は監督兼脚本兼主役の小林とグダグダしながらタイトルを考えたりロケ地を探したりカメラを持たせてもらったりしました