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知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

人に話を聞かせる話――多和田葉子『容疑者の夜行列車』

ものすごくどうでもいい話をものすごく面白く喋る人がいる。

いや、それは間違いで、全てのことは本質的にどうでもいいはずで。ただその喋る人や喋られていることに興味があるかどうか、もしかするとそれだけなのかもしれない。

飼っていた猫が子猫を産んだとか、おととい口内炎ができたとか、日本経済がどうだ、とか、本当の本当にそれが他人事で、猫や口内炎や経済に興味がなければ面白いものでもないだろう。

けれども、世の中には居るのだ。本当にどうでもいいはずのことをものすごく面白く話す人間が。

おばあちゃんの家に持っていくケーキを買うのに迷いに迷ってチーズケーキを買うだけの話や、どのようにして足し算を定義するかを、奇妙な狂熱をもって話す人々が。

確かに目を輝かせ本当に面白い話のように話すのを聞いていると、確かに面白く聞こえるものもある。人との雑談だけではない。世の中の広告のほとんどは、本当は本当にどうでもいいはずのものを狂熱をもって語るのだ。

そうすると、小説はどうだろう。小説は変だ。フィクション小説では、突然知らない人が出てくる。もちろん読者と面識はない。あるはずもない。実在すらしていないのだから。僕が私がと言ったり言わなかったりしてよくわからない人や街の話がはじまる。

どうでもいい話をどうでもよくしない狂熱を持った小説はたくさんある。けれども、ただでさえ変である小説の中でも、さらに変である小説の話をしよう。

容疑者の夜行列車

容疑者の夜行列車

この小説をあなたが手に取り読み始めるとしよう。そうすればこの小説が変であることはすぐにわかる。なぜなら、この本の中で、あなたはダンサーになって夜行列車に乗っているのだから。

"あなたは、数年前マルセイユで、ゴミ収集車のストを見たことがある。道路の脇にゴミの山ができ、それが毎日膨らんで見上げるほどの高さになっても、まだストは続いた。真夏の太陽の元で、なまゴミが腐乱する。臭い、臭い、と言って、人々が鑑賞している。そこには祭りのような興奮があった。(p.15 多和田葉子『容疑者の夜行列車』青土社)"

この小説では、読者が作者が書いたものを読むという、本に対しての“健全な距離感”を、初っ端から突き崩してくる。文体は、本の中の語り手が読者に話しかけるようなものであるのに、「あなた」という言葉はあなたではなく夜行列車で国境を越えようとする女性のダンサーを指しているのだ。

作者の話を聞く聞かないの問題ではない。この小説の中ではあなたは夜行列車に乗せられて、相席の客に密輸したコーヒー豆をかばんに詰められたりストライキに巻き込まれて憤慨したり喧嘩をことわざでしか返事をしない人の会話を聞く羽目になったりする。さまざまなことは起こるが、大事件は起こらない。「あなた」は別れそうなカップルを目撃するが別れたかどうかを確認する前に列車を降りてしまう。語りの中に狂熱は見当たらない。印象的な一言があるわけでもない。だがしかし、この小説はなぜだか静かにものすごく面白い。

この面白さは、扇動的な口調で押し付けてくるような、資本主義広告社会でよく見かけるアグレッシブな面白さとは違う。「俺の話を聞け!」ではなく、語り始めからすでに読者をするりと巻き込んでしまっている。これで、思う存分頭も尻尾もないような、傍から見るとどうでもいいような話ができる。なぜなら、あなたはもうこの物語に無関係ではないのだから。

犬婿入り (講談社文庫)

犬婿入り (講談社文庫)

芥川賞受賞作。知らない間に犬みたいな人が家に居着いてしまう話。 これもなんだかよくわからないけどものすごく面白い。 今まで語られてきた面白さとは明らかに異質なものを放っている。