文が伝わる、とは
文章ってなんなんですかね。
良い文章がわからない
最近文章の書き方がわからなくなって困っている。
文を伝達の手段と割り切ってしまえば、気は楽になるんだと思う。
どういうことかというと、書き手になにか伝えたい意味や風景や感情が先にあって、文章はそれをうまいこと伝える媒体、ツールであると考える。文章が上手いとは伝えるのが上手いということになり、文を鍛えるということは文の通りを良くすること、つまりだれにでもわかりやすい文章を書くこと、になる。これは悪くはない考えに見える。それが当然だと思う人も多いだろう。人はあまりにも多様で、当たり前に伝わると思っているようなことでも全然伝わらないことも多い。良い文を書ければ、あるいは伝わるかもしれない。
けれど、どうなんだろうな。その路線で考えを進めていくと、最高の文には誰にでも伝わることしか書いてない、ということにならないか。それはつまらない気がする。なんかわけわかんないけどとにかくすごいことだけわかる文とかあるし、詩とか意味不明だけど頭から離れなかったりするやつがある。理解できるものだけを評価し、理解できないものを良さから弾いてしまうのは、良い文観の貧困だと思う。伝わることしか伝えようとしなければ、底は浅くなっていくばかりだろう。けれど伝わらないことをそれでも伝えるなんてことができるのだろうか?そもそも文は伝わるものなのか?
私は良い文を書きたいし多分これを読む人も各自良い文(映画とかダンスでもいいけど)をやっていきたいと思っているのだろう。一体どうすれば良くなれるのか。
遠回りにも思えるかもしれないが、人が文を読んだり絵を見たり映像を観たりするときに起こることを考えたい。まずは図を見てくれ。*1
図

ものがあって、これは風景だったり作品だったりする。人がこれを見る。見て、それを記憶をもとに解釈して、それから何らかの風情であったり意味であったりを感じたりする。
解釈できないものに当たった時はどうなるか。いわゆる手に負えない作品とか、どうでもいい物だったり。それはよくわからないといった感情を産んだり、何も感じないといった反応を引き起こすだろう。
大事なのは、ものを見たら直接感情が出てくるのではなく、解釈を挟まないと感情が出てこないことで、この解釈をやるには、記憶が必要だということだ。
夕焼けという文字を見て夕焼けのイメージが伝わるためには、まず夕焼けの記憶がないといけない。その上、夕焼けという文字列が、あの日が沈むとき橙になった空のあの光を意味するとわからないといけない。
これは脱線になるけれど、最近会話ができるbotを作りたくて、プログラムに言葉を教えようとしているのだがこれが難しい。記憶の有無という壁にぶつかってしまう。botには文字の並びしかわかってない。mecabやkuromojiという形態素解析ツールを使えば、文章の中のどの部分が動詞でどの部分が名詞で、ということはわかってくれるのだが、基本的には文字の並びを辞書をもとに解析しているだけだ。夕焼けという文字列は夕焼けという文字列のままで、生物としての記憶は無いので感動したりとか帰らなきゃと思ったりはない。たぶんない。そういう相手は夕焼けと言えば夕焼けだねと返すかもしれないが、意味を伝わってると果たして言えるんだろうか。*2機械に解釈をやってもらうためには、一応肉体を持ってもらって、電池が切れそうなのに充電スタンドが見つからなくてどうしよう、この感じはなんていうんだ、「焦りだよ」そうかこれは焦りっていうんだ! みたいなものをやってもらう必要があるんじゃないかと思う。*3脱線終わり。
なんのためにこんな図を用意したかというと、文を読んでそれが伝わるということがどういうことかよく考えたいからだ。
文字を見、解釈をし、意味や感情を想起する。これを伝達と呼んでみよう。作者の狙った感情や意味や知識を想起させることができたなら、伝わったと言えるんじゃないか。この流れで、例えば長編小説や詩を読むことはどう説明されるだろう。
長編小説と詩
長編小説の場合
長編小説の特徴は、まず長いことだ。長さには意味がある。
長さがある小説は人の記憶になることができる。記憶になることができるので、読み手の解釈の幅も広げることができる。
これはけっこうすごいことで、多分長いものを書く人はこれに自覚的でいる。読者には読書体験の記憶があるので、登場人物の成長や変化や頑なさを感じるということができる。文脈を発生させることもできるので、伝わるイメージも安定していて、人によってのばらつきも比較的少ないように思う。小説を読んで、何が起こっているのか?というレベルで解釈が揺れることはそんなにない。*4
詩の場合
詩はよくわからなくて、どう考えたらいいのか困ってしまう。けれど最近読んだ中井久夫の詩の定義が気に入ったので、これを参考にさせてもらう。こうだ。
「詩語は、ひびきあい、きらめき交わす予感と余韻とに満ちていなければならない」(『世界における索引と徴候』 307ページ)
詩は、ある意味を伝えるというより、脳に解釈の幅のある言葉を投げ込んで、和音のように意味の広がりをかき鳴らす。結局何が起こったのかははっきりしないときが多いけれど、イメージの重なりからなにかが伝わってしまう。
ふたつの違い
散文を書く場合の「伝える」と、詩を書く場合の「伝える」は結構違って、作者の頭の中にある何かを伝えようという思いは同じでも、伝達のどこを利用して感情や意味を伝えるかが違う。長編小説の場合は記憶を増やし、詩の場合は解釈のゆらぎを利用する。形式によってどこを利用するかが完全に分けられるわけではなく、ほとんどの文は両方の要素を併せ持つだろう。
結局伝えるときには何が起こっているのか
人は文章を読むことで文章を記憶し、存在しなかった記憶を新しく持つこともできるし、解釈と踊ることで新しい解釈をもつこともできる。書き手の持っていた意味を伝えようとすることは、読み手の中で新しい意味をつくることだ。文が伝達の手段だからといって何かを失うわけではない。
結局「伝える」と言っても層があって、読者の知ってることをただ想起させるだけじゃつまらなくて、そのイメージを組み合わせた先にあるものを見せるのが多分文章(作品)の良さなのだろう。人によって記憶は異なるので、書いたことすべてが作者の狙い通りに伝わるとは限らない。それでも人間はなんとかやっている。人間はけっこう適当で、その適当さが伝達者の希望になる。
- 作者: 中井久夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2010/05/29
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 55回
- この商品を含むブログ (17件) を見る