知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

吉増剛造展「声ノマ」を見に行った

吉増剛造の詩は難解だ。少なくとも、ふつうの文章を読んでいるときと同じ脳の部分を使っていては全然わからない。ただただ、ことばの疾走感とイメージの奔流にやられるしかない。 現代詩は全然わからないし、吉増剛造の詩もその例外ではない。

それでも、なにかわかりたくて展示に足を運んでみた。本当に暑い日だった。

一応予習はしていったのだが、何度読んでもわからないし、本当にはわからないんだろう、という気がしたまま行った展示だった。*1

声ノマ 全身詩人、吉増剛造展 | 東京国立近代美術館

展示は、日記、二重露光の写真、銅板、カセットテープなど音の展示、自筆原稿、映像、怪物くん生原稿、飴屋法水による怪物くんをモチーフにした空間、大野一雄とのコラボレーション映像と、9つのスペースに分かれていた。

現代詩の読み方

わたしは短歌は好きだけど現代詩が全然わからない。

いや、短歌だってわかるかというと分からないが、現代詩って言う物が本当にそれ以上にわからなくて、これは実は適当に書いているんじゃないか、それだったら意味ないじゃないか、(でも吉野弘は好き)みたいな感じだった。

少しわかるようになったのは最近で、これは意味に取り込まれる前の意味を書いているんだ、その勢い、空気、舌触りにひとまず流されればいいんだ、と気づいた。

それは短歌の読み方とあまり変わらなくて、ただ短歌のほうが定形だしその定形をいかに揺さぶるかで評ができるしわからなくても31文字だから繰り返し読める。 詩が読めなかったのはただ単に異質な言葉に乗る体力がなかっただけだった。

詩を書ける人は、むしろ短歌の定形に書かされている気がすると言って定形を嫌う人も多いが、そういう人は自分の中にビートがあるか、ビートを拒んでなお書けるからすごいと思う。

吉増剛造はすごくて、肉筆の原稿も、書いた後に絵の具まみれにされた原稿もあって、文体だけでなく、その書き方、書体までもを詩にしようとしていた。

50年前の日記という希望

日誌のエリアでは20代の日記帳から最近の70代の日記帳までずらっと展示されていたのだが、筆跡がかなり変化していた。

わたしはこの展示が一番好きで、生きていてもいいんだという気になった。本当に。

若いころはノートを大胆に使って、余白も多いし、まだ判読可能だった。 21歳ぐらいのノートには、(メモをとっていないので記憶で言ってしまっている、とっとけばよかった)詩を難解にする、詩を難解にする、意味に寄せすぎて詩はばらばらになっている、詩を難解にする!みたいなことが書いてあるし、28歳ぐらいは、体調が悪いとか、退職願の連発とか書いてあってとてもつらそう。

その後かなり間があいて34歳に飛ぶが、このあたりでかなり字が小さくなっていて、米粒ほどもない字で余白を埋めつくすようにびっしりと書くようになっていた。

これを見て、まず20代のつらそうな感じに、あまり他人事とは思えない共感をした。思考は辛い。仕事も辛い。日記に退職願の連発と書くほど辛い気持ちがよくわかってしまった。しかし彼は生き延びて、その日記を展示できるほど偉大な詩人となった。77歳ともなると28歳なんてもう50年も前だし、公開しても一ミリも恥ずかしくない過去なのではないか? この辛さも過去になり狂気スレスレの作品を生み出す(怪物君わけがわからなすぎてすごかった)疾走する70代になれる日が来るんじゃないか?これはもう希望なんじゃないか?

天才と自分を比べるのはおこがましい感じもするし、さすがにわたしは日記に「退職願の連発」みたいなパンチラインを書けてはいない。言葉との向き合い方もぜんぜん違う。でもやっぱり、これだけの人がつらそうな20代を送っていて、そしていまでも疾走しているというのは、安心するし、つらくても生きていていいんだなと思ったりする。

まとめ

他には音声のエリアで歌うような低い朗読があちこちで流れていて音がくすぐったかったり、映像が怖すぎたり、怪物くんの絵の具がべったりついた部分は奔放にやっているのかと思ったら、制作風景の映像ではかなり丁寧に少しづつ絵の具をぺたぺたやっていて、こっちの狂気の方が強いなと思ったり、生原稿ではマス目を完全に無視してもっともっと小さい字でびっしり書き連ねていたり。

見に行ったことでなにかわかったかというとそんなことはないし、わかるかわからないかで言うと全然わからなかったけど。謎の元気が出る展示会でとても面白かった。

*1:本当は佐々木中との対談が観たかったのだが、席が埋まってしまっていたのでそれは残念。

ドラッカーのことが大好きな生きづらい世界

最近実家に帰省するたびに、父がドラッカーを貸してくれる。父はきっと社会と上手くやっていけなさそうな私を案じて貸してくれているのだろう。

私は正直いってドラッカーが全然好きではない。大学の時少し読んでみたのだが、全く意味不明だった。しかし勤め人となってしまった今は嫌になるほど理解できる。確かにこれは現代社会の聖典だ。いい意味でも悪い意味でも。

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

聖典としてのドラッカー

ドラッカーはずっと、いかに組織というものを上手く回るようにして、成果を出し、社会に貢献するか、ということを書いてきた。

明らかにこの考えは、企業社会のベースというか前提になっている。なにしろ経営学の祖と呼ばれているのだ。仕事と呼ばれて人が想像し信じているものを知るにはとてもよいチュートリアルになるだろう。

マネジメント、成果、組織といった現代労働市場基本語彙は、ドラッカーから来たもののようだ、読んでいると、結構古い本のはずなのに、現代企業っぽい言葉がポンポン出てきて驚いてしまう。

組織とは、会社やNPOなど、人が集まってなにかする場所すべてを指すという。そう考えるとこのドラッカーのマネジメントは非常に射程範囲が広いものだ。

このマネジメント論に従っていれば、なんとなくうまく行きそうに見えるし、実際それを信じてこの労働社会は動いているように見える。いわば、このマネジメント論は、仕事をうまくやりたい人間のための聖典なのだ。

マネジメントを聖典にして何が悪い、と思う方も居るかもしれない。確かに、ドラッカーは非常にわかりやすい。仕事を上手くやりたい人と望む人にとっては希望とも言えるかもしれない。なぜなら、そこには確かに、ある種の救われ方が書いてあるからだ。しかし、本当にそれで救われてしまっていいのだろうか?

ドラッカーの言ったこと

ドラッカーの言っていることは、基本的に単純でわかりやすい。要するに、自分が何をするか考えるときには、それが成果にどうつながるかを考えろ、ということだ。

組織の目的とは、社会に貢献し、人類の幸福に貢献することであり、成果とはその目的にどれだけ近づけるかを言う。 どのように成果を出して、人から必要とされて、利益を出すかを考えて、働く。これがマネジメントというものの基本だという。

そして重要なのは、この考え方は特別な才能ではなくて、訓練次第で誰にでもできることだとも強調しているということだ。

一応の成果をあげるためでさえ、理解力があり、懸命に働き、知識が有るだけでは十分ではない。成果をあげることはこれとは違う何かである。

 とはいえ、成果をあげるためには特別の才能や、適性や、訓練が必要なわけではない。物事をなすべきものが成果をあげるには、本書で述べているいくつかのことを実行すれば良い。しかもそれらを実行するために生まれつき必要なものはなにもない

(pp. iii .まえがき『ドラッカー名著集 経営者の条件』P. F ドラッカー)

これだけ聞けば、ドラッカーはそんなに変なことを言っていないように聞こえるだろう。確かにそうだ。彼は本当に真摯で、本の中でもたくさんの実例を挙げて、うまくやるための方法をなんとか伝えようとする。ずっと書いてきただけあって文章もとても読みやすい。彼はきっと彼自身の成果を信じている。

ただこの考えを信じて生きることを、私はすごく息苦しく感じてしまう。といっても問題は経営学が存在することではなく、生活が組織生活とそれの準備だけになってしまうことが恐ろしいのだ。ドラッカーの言葉は強く、生活の全てを飲み込むような力を持っている。

誰でも成果をあげられる、という救いと絶望

この、「成果を上げることは誰にでもできる」と言っているのが、ドラッガーのもたらす救いであり絶望でもある。

一度ドラッカーを真に受ければ、成果を出せるいつかの自分の存在を信じて生きることができる。成果さえ出していれば、きっと皆に認められ、それ相応のお金を手にしてもいるだろう! ちなみにドラッカーはguru(導師、教祖)と呼ばれることを嫌っていたらしい。*1 どれだけ彼を信奉したがる人が居たかの現れだろう。

べつにこうして生きることが、いいとか悪いとかではない。希望を持って生きることは悪いことではない。仕事をするときだけでもこのように考えていれば、これを前提にして回っている企業社会では愛されることだろう。

ただ、成果を出していない自分は本当に成果を出す自分の途中の姿でしか無いのか、本当にそれだけを信じていて人生の方は大丈夫なのか。

何もしなくても親は老いるし猫は成果なんて出さないし小説読んだら何も残らなくても最高だしコオロギはコオロギだしトカゲはトカゲだし人間はただの人間だ。生きることには、成果なんて関係なく回っている要素が多すぎる。

確かに成果を出さなければ企業社会で生きるのは難しい。上手く働けなければお金がなくて偽物のヨーグルトを食べる羽目になる。*2そうなれば、人生を成果なんて考えずに生きるどころではなくなるかもしれない。けれども、だからといって全てを成果か否かにしてしまって本当にいいとは、私には思えない。

成果で覆い尽くされた労働市場に飛び込んでお金をとってくること

人生を成果に捧げて、それを疑わなくて済む奴は、そうできない奴と違う恵まれ方をしているだろう。だがそういう奴のふりをしないと生きられないような、たったひとつの目標しかない世界は辛くないか。いまの社会がそうなっていないようにはあまり思えない。働いても働かなくてもいい、ではなく働かないと死んでしまう、では苦しくないものも苦しくなってしまう。

世界を豊かにすることが成果だとは言うが、その成果という考えは豊かな何かを失っているんじゃないか? そのアンチテーゼには本当に人々がみな軽蔑するようななにか、例えば偽物のヨーグルトしか来られないのか。もっとそんなの関係なく生きていられたりできないんだろうか。

労働無しで生きていくのは、いまのところちょっと厳しそうだ。偽物のヨーグルトはもう二度と食べたくない。ならどうやって生き残ればいいのか。これも、まだちょっとわからない。仕事を愛せれば楽になるだろうとは思うが。たぶん、やらないといけないことで覆い尽くされている仕事の代わりに、もっと生活の中でやってもいいしやらなくてもいいことを増やしていくのがいいのかなと考えている。小さくても成果とか言わない息苦しくない場所を確保して、そこでなにか楽しく生きられれば良いのだが。

*1:これはwikipediaに書いてあった

*2:無脂肪ヨーグルトを食べたことがあるだろうか。あれはほんとうにひどい。完全に偽物の味がする

『ユダヤ教の人間観――旧約聖書を読む』エーリッヒ・フロム

旧約聖書の注釈本。馴染みのない人には敬遠されるかもしれないが、異常に面白いし感動的なのでみんな読んで泣くといい。

ユダヤ教の人間観―旧約聖書を読む (河出・現代の名著)

ユダヤ教の人間観―旧約聖書を読む (河出・現代の名著)

フロムは『自由からの逃走』で権威主義を批判したことで有名な精神分析*1だが、ユダヤ人として生まれただけあって聖書の教養はものすごい。*2

そこで旧約聖書をきちんと読んで解釈しようとするのだが、これが感動的なのだ。

モーセが何度も人の心を変えることに失敗すること

モーセはエジプトで奴隷化されていた人々を開放し、神に約束された地へと導こうとするが、これが全然うまくいかないのが旧約聖書の面白いところだ。

確かに奇跡は起こる、エジプト王を説得するため魔術師とモーセが力試しをするときに、虻を大量発生させたり川の水を血に変えたり、蝗を大量発生させたりは起こる。海も二つに割る。だがしかし、人の心はなかなか変えられない。神が人の心をかたくなにしたため、何度も説得に失敗する。

エジプト王は民衆が蝗の被害にあって飢えて苦しむまでモーセにエジプトを出る許可を与えないし、モーセにせっかく連れだしてもらったヘブライ人も荒野の旅でこれなら奴隷のほうがマシだったと文句を言うし、モーセが目を離した途端黄金の子牛の偶像を崇拝し始める。

フロムによると、これは神がいじわるをしているわけではない。神は奇跡は起こしても、人の心は変えないのだ。旧約聖書では、アダムとイブが知恵の実を食べた時からずっと一貫して、人の選択は全て人の意志で行われている。このかたくなにするという表現は、神の意志がはっきりしていないのではなく、神が人をそうつくったという自然現象のようなものとしてとらえるべきだ、と。

海が割れたのも、最初のイスラエルの民がまさに足を踏み入れてからだった。

つまり、聖書はでは人が良くなるも悪くなるも人の自由ということが描かれている。全能の神は全ての選択権を人に与えている。

という風に、モーセと神との説話の解釈を通じて、聖書の中から人間の自由意志の証明を引き出す辺りは感動的だし、付録についているイエスの最後の言葉の考察はもう泣く。

イエスの死は絶望的だったのか?

イエスの最後の言葉として、エリエリエバク、サバクタニ(神よ、どうして私を見捨てられるのか?)というのが有名だ。

イエスは磔刑に処せられているし、これだけ聞くとイエスは絶望しながら死んだのかと思われがちだが、実はそんなことは全然ないという。

ユダヤ人の伝統に、詩の一行目で詩の全体を指し示すというものがある。

このエリエリエバクサバクタニは、詩篇の22の冒頭と一致する!この詩は、何度も襲い来る絶望の詩ではあるが、その果てに救いと歓喜を確信する。イエスがこの詩を知らないわけがない! 磔刑にされながらもすでに救いを見ていたんだ!という。

私がこんな風にざっくり書いてしまうとそうなのかーで終わりそうだが、そこは文章家のフロム、しっかり論理的に、それでいて泣けるように書いてくれている。

聖書はたくさんの人に大切にされている書物だし、その解釈は無数にある。道標無しで読んでしまうと退屈な本かもしれない。そんな中で、この部分はこう解釈するか!と驚ける部分もあるし、ここは聖書の中でもつまんないよね真に受けちゃダメダメ〜みたいなことも言うしお茶目な部分もあるし、解釈の面白さにふれるのにもいい本なのではないかと思う。

*1:この辺の年代の人で立派な著作を残しているひとは精神分析家が本当に多い

*2:ユダヤ教には毎安息日にみんなで聖書(旧約)の朗読を聞く習慣があり、一年でモーセ五書を一周する

マフィアと隣り合わせの暮らし『死都ゴモラ』

いわゆる裏社会もののノンフィクション。高度に資本化された企業マフィアをめぐる短い話がたくさん入っている。

死都ゴモラ---世界の裏側を支配する暗黒帝国 (河出文庫)

死都ゴモラ---世界の裏側を支配する暗黒帝国 (河出文庫)

裏社会では、異常な出来事が多々起こる。

破れたコンテナから冷凍された出稼ぎ中国人の死体があふれだし、麻薬中毒の男がマフィアに殴られ動かなくなる。その男の顔に麻薬中毒の女が小便をかけ、男は息を吹き返す。吸い込んだら10年後に苦しみながら死んでしまうような有害な廃棄物を運ぶ仕事を、危険だと聞けば聞くほど重要な仕事だと思い熱心にやる少年たち。

現実では変なことが起こるものだが、本当に異様で想像を絶する、だからこそ現実でしかありえないような出来事が、淡々と、黙示録的な美しさを持つ、文学的と言ってすらいいような文体で書かれている。

そこで起きていることは確かに血みどろで出口がなくて、どうしようもない気分にさせられるのだけど、読んでいるうちに、その裏社会の出来事が、実は裏でも何でもなく、われわれの便利な生活と地続きであることが思い知らされる。作者はこんな場所に本当に潜入して大丈夫なのかと心配になるが、現在は常に警護付きで暮らしているらしい。

読むのはとても辛く、人殺しの道具である銃を改善し、子どもでも扱える道具にまでしたあのカラシニコフに関する章が明るく見えてしまうぐらいだ。*1

こういう絶句してしまうようなことの本の感想はとても言いづらいのだけど、こういう本を読むたびに、表社会から外れ暴力と鉄が支配する裏社会で暮らしたとしても、より厳しく穏やかさから遠い生活をする羽目になるんだなと思う。

最近同じ作者のコカインゼロゼロゼロも読んでいるけど、これもすごくひどい話を冷徹に書いていたり、マフィアのボスが秘密の掟を話したときの録音を聴かせてもらったりしていてすごい。

社会を考えるときに人は経済のことばかり考えてしまうが、その経済を動かしている要因として、麻薬のことももっとちゃんと考えたほうがいい。

*1:その神UI銃のAK47に心酔し、AK型のボトルに酒を入れて売るおじさんが出てきて、もはや笑えるのか笑えないのかわからない。

死にかけて音楽を聞いた話

実は自殺未遂をしたことがある。

結局失敗したからやめたし、いまもまだしたいかというとそんなことはないような気もする。けれど、いまでもたまに、失敗した直後のことを思い出す。

その時は本当につらくてつらくて仕方なくて、全てのプレッシャー物音思考に耐えられなくてもうダメだこれは死ぬ!と思っていたし実際そうしようと思っていた。

いろいろあって結局失敗してベッドの下に転がっていたときも、何をやってもうまくいかないなあとは思っていても決して生き延びてよかったなあとは思っていなかった。

しかし、そこで私は床越しに聴いてしまったのだ。

それはブルースだった。曲名がわかるほどはっきりとは聞こえなかったし、そんなに詳しくないし、普段はブルースなんて聴かないのだが、その時聞こえた声は、音楽は、床越しにも届いたあの強い声は、ブルースでしかありえなかった。

人間関係が希薄なアパートなもので、私は真下にどんな人が住んでいるのか知らない。ただ、その時に流れていたのが、他でもないあのブルースだったというその一点だけで、私は下の階の人に感謝している。 へばりついてそのブルースを聴いていると、痛いほど動いている心臓もしびれるほど緊張した身体もなんだかほどけてきて、絶対にもうダメだという気分から、今日のところは勘弁してやるからな!と妙に寛容な気持ちになってきて、ぜえぜえ言いながら精神科の予約をとるまでに落ち着いた。

これは音楽がすごいという話ではなくて、むしろ音楽のせいで生から逃れさせてもらえなかったという話だ。

4分33秒で有名なジョン・ケージは、無音の空間に行ってみたくて無響室に入った。その時、彼は心臓と呼吸の音以外に高い音と低い音を聴いたという。後でエンジニアに聞くと、高い方は神経系統の音で、低い方は血流の音だったという。そして彼は、「自分が死ぬまでこの音は続き、死後も音楽は鳴り続けるだろう」と言った。

確かにそうだ。なにもかも失くしたって音楽だけは残るし、自ら全部失くそうとした奴のところにも音楽は訪れる。音楽からは逃れられないしそこにうっかり救いを見てしまうことだってあるだろう、けれどもやっぱり救われないし、救いも無いまま人間は音楽とやっていくしかない。でも音楽さえ残っていれば、きっと十分なんだろう。

カシオ 電子ミニキーボード 44ミニ鍵盤 SA-76 ブラック&オレンジ

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バーナムピアノテクニック(1)

バーナムピアノテクニック(1)

最近はロシナンテというバーに行ってからピアノを弾きたくなって、バーナムのアホみたいなやつを筋肉痛になりながら進めている。ほぼ初めてでも弾けるレベルなので楽しい。