知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

新米経営者、チュートリアルが終了し本物の恐怖が襲ってきた

でけえ地震があって帰宅できなかった夜だった。
私は昼夜逆転経営者をやっているので、「呆然夜中の2時過ぎてやっと俺だ」(やさぐれカイドー / 秋山黄色)みたいな生活をしている。昼間は従業員に頼み事をし、取引先と話し、夜中は自分の仕事をすすめるのがいつものルーチンで、その日も帰れなかったというダルさはあれど、やることは同じなので普通に事務所で仕事のコードを書いていた。

前の日に真剣に金勘定をしたのが地味にのしかかっていた。思ったより金がねえ。
コード書きはそんなに難しいことはしていないけれど、疲れはするので適宜休憩を入れる。2回目の休憩のときに「それ」は襲ってきた。

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「本物の恐怖」がきた

そいつは本物の恐怖だった。
もし金がなくなってにっちもさっちも行かなくなったら、いったいどうしようか?

今更会社員に戻るなんて無理だ。会社員は午前に起こされる。午前中に起きるとメンタルがぶち壊れることははっきりしているし、人の言うことを聞く生活がもうできるとは思えない。
それに従業員たちだって困るだろうし、借金だって残るだろう。

宗教を真剣にやってない自分には、残念ながら自殺しか残ってないんじゃね?と思ったけど、かつての経験から実際死ぬなんてことは怖くて無理だとはわかっていた。

すがりてえって思った。でも、一体何に? 人生設計か?


理由がわからない謎の慣習には大体理由がある

人生設計というものを舐め腐って生きてきた(だって未来はわかんないじゃん)けれど、あれは困ったときにすがるためのやつだったんですね。本物の恐怖にそばに立たれるまでそれをわからずにいました。
自分が無駄だと思ってやらずにいたことはわりとたくさんあり、例えば履歴書なんていらねえと思ってたんだけど、一緒に働いてたら結局聞く内容が書いてあるんだよな。もらえば書類が書ける人かどうかもわかるし……。取手のないバッグを作って使ってみて取手の重要性に気づいたこともあったな……。

理由がわからないことができない性格なので、あらゆるしょうもなく見える慣習の意味も一回失敗して痛みを感じないとわからないんですよ。ちなみにキックオフミーティングをやらないで始めてみたプロジェクトが爆発して、キックオフミーティングの意味を知ったこともありました。

痛えってなるたびに死にたくなるけど、同時にいよいよ焼きが回ってきたなと思う。毎回思う。

その点ではこの歳でいっぱい焼きが回ってよかったと思うし、たとえ自分が獲得し実行している知見の全ては再発明された車輪の大回転にすぎなかったとしても、それでも何もわからないよりよっぽどいい。理解は、良いことだから。


残念ながらまた次がある

弱っていれば本物の恐怖には負けるだろう。経営者や個人事業主の目に昏い影が常に差している理由もかなりわかった。こんなんと隣合わせに生きてたらそりゃすごいことになるだろうな、自殺率とか。
けれど、次はうまくやろうと思った。そして、次があることを無意識に仮定している自分が少し面白くなった。
何度怖くなったって、次があるよ、たぶんね。

ビギナーズラックでなんとかなってた経営チュートリアルは終わって、でも次があって、そしたらそのときはまた上手くやろうとするだろう、頭だって使わないわけにはいかないだろうし。
また最初から泥臭くやっていくだけだし、手がある限り物は作れる。

「何度失敗してもまだ手は動くよ」と本物の恐怖に言ったら、本物の恐怖は「また来るよ」と離れていった。

 

 

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20歳の頃に書いた抑うつについての文章

どっかに寄稿したやつです

もう手に入らない同人誌のやつなので、ここに再掲しておきます

 

 

 

 

人生に転機があったとすれば、多分そう、去年のことだと思う。
二十歳を目前にしたころ、世界は一旦崩壊した。
ひどく暑い日だった。バイト先のいけすかない上司に叱られ、死にたさを半笑いでごまかしていた帰り道。ふと、頭の中に何かざわめきのようなものが巣食っているのを感じた。それが悲鳴の群れだと気づいてすぐに、世界は恐怖で黒く崩れた。本を開くと絶叫が頭蓋に響いて全く集中できないし、拾った文字もその意味がわからない。人の話が半分も理解できなくなった。考えることが苦痛に変わり、好奇心は猛毒と化した。料理の味がしなくなった。つらくてだるくて起き上がることさえできなくなった。単位なんてとれるわけがなかったし、バイトはいつの間にかクビになっていた。糸の切れた凧のように這いつくばって、目を閉じて思考を止めて、死にたいとリフレインする声から逃れようとしていた。音楽もテレビの音も、呼吸の音も心音も、すべてが呪詛のように耳障りだった。意味も意思もばらばらになった世界で、なにもしないことだけがどんどん上手くなっていった。
活字中毒と絶え間ない思考、そのふたつをアイデンティティとして抱えて十九年間生きてきたつもりだったのに。こんなものまで壊れるなんて、誰が予想できただろう。学費を払ってもらっているのに、レポートも書けない。インプットもアウトプットもできない大学生にどんな価値があるんだ?こんな状態になってまで、どうしてなおまだ生きているんだ?これから先、ずっとこうかもしれないなあ。考えるたびに肺が詰まって、濁った死の姿を延々と思い浮かべていた。
精神科に行った。「あなたは統合失調症です」処方箋には向精神薬・麻薬との文字が黒く光っていた。もらったばかりの苦い薬を水も買わずに飲み込むと、すぐに気分が晴れやかになった。ちっぽけな錠剤一つでどうにかなるもんなのか。人間の精神ってなんなんだろうな。死にたさは小雨になったが、身体は吐き気を訴えていた。
しかし半年も過ごした頃だろうか。一日二錠の錠剤のおかげか、友達も家族も見捨ててくれなかったおかげか。気がつくと世界は淡く色づいて、意味を再び取り戻していた。犬の散歩に出ると、散り遅れた桜が白く光って青い空に映えていて、きれいだと、思った。今更のように、ずっと俯いて歩いていたんだなと気がついた。


成人したはいいものの、この一年、本当に何も出来なかった。留年したし、そこで少し延びた人生の猶予期間でさえ、自分は無価値で死ぬべきなんだ、としか考えていなかった。その間の日記は空白で埋まっている。つらかった。けれど、少しだけ学んだことがあった。


優しい人でありたいと思っていた。人の気持ちがわかる人でありたいと思っていた。けれど、勉強したくても頭に入らないこと、働きたいのに体が動かないこと、そして自分で自分におまえは無価値だと宣告すること。これがどれだけつらいことなのか、あんな状態に成り下がるまで、理解しようとすらしていなかった。


私は間違っていた。完全に間違っていた。生きる意味が見つからないからって、死ぬ必要なんてなかったのだ。


虚勢だろうと何だろうと、生きてていいんだって言い続けること。誰に何言われようと、自分に価値はあるってことにしておくこと。たぶんそれが、この残酷で碌でもない社会で、狂わないで生きるための前提なんだろう。


そこに根拠はない。でも、根拠がないものを信じている人は意外と多い。愛なんてその最たる例で、あいつの目がきれいだから好きだ、とか、優しいから好きなんだ、なんて宣言をいくつ積み上げたところで、その本当には辿り着けはしない。愛に根拠を求めようとして、どれだけ言葉をひねり出そうと、好きだから好きなんだ!という同語反復の宣言に終わるだろう。
宗教だってそうだ。どの宗教書をめくってみても、そこに書いてあるのは「疑うな」のみ。死後に審判があったりすることの根拠なんて書いてないし、解脱の証拠が耳を揃えて並んでいたりもしない。
根拠がないからって疑うのは簡単だ。愛だって宗教だって、生きてていいってことだって。けれど、こうも思うのだ。根拠がないからこそ、前提たりえるのでは、と。
生きる意味なんてわからないし、答えもきっとないのだろう。それでも、人はそれを求めてしまう。それなしでは生きられないとばかりに。だったら、前提は必要なんじゃないか。考えるよりどころとするために。答えのない問いを生き続けるために。
つまりは、生命は無価値だと信じるのも、なにかあると思い込むのも、どうせどちらも無根拠なのだ。ならば楽しい方を選択しよう。世界はどうしようもないし、人間は時に醜い。それでも、きれいなものはあるんだと、人生に生きる価値はあるんだと、そういうことにしておくのだ。

引いた線に守られる(デザイン会社の社長業について)

今までいくつもフライヤーやウェブサイトなどのデザインを作ってきた。
けれどもはじめの一手はいつも心細い。

頭の中でどんなものを作りたいかの解像度を上げていって、それを写し取るように実現するタイプの絵描きやデザイナーは居るけれど、私はそうではない。脳が狭くてそんな芸当はできないのだ。

頭の中で風景を描くには、私の脳はあまりにも狭すぎる。口から長い文章が出てくる人のこととかどんな脳やねんと思って見ている。
ヘブライの神話にバハムートという巨大な魚が出てくるのだけど、バハムートはあまりに巨大なため、こちらに向かって泳いで来るのを見ていると、尻尾を見る頃には頭がどんなだったか忘れてしまうという。私にとっては喋るということ自体がそんな風なものに思える。
自分が喋り終える頃には、最初に何を言っていたかがわからなくなってしまうので、口から整合性のある長文が出てこないのだ。フロッピー時代並の脳のメモリである。

万事がそんな感じで、完成形の解像度を上げるのはこの狭い脳には困難過ぎる。

じゃあどうやって物事を完成まで持っていくのか。まず紙に線を引きます。

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紙は外部記憶だ。頭の中に収めきれないようなことでも、紙に線があれば次の手が考えられる。
なにか線が引いてあれば次の線のことが想像できる。次の線が引ければまた次の線も。

そうしていると、自分の引いた線に守られているんじゃないかと考える。

そして思う、人間はずっと人間の引いた線に守られてきたんじゃないかと。
道だってそうだし、土地の境界だってそうだし、法だってそうだ。
古代ギリシアではもっとも重い罪は土地と土地とを区切る境界石を動かすことだったらしい。境界石を動かした人間はホモ・サケルと呼ばれる存在にされて、法の外に置かれてしまったという。法の外に居るので殺されても奪われても誰も加害者を裁いてくれない。
法律とは世界に引かれた有罪と無罪の間の境界で、その境界を無視するものは引いた線に守られないということかもしれなかった。

線が見えてさえいればなにもないよりは遠くまでいける。
国境があればその内側では争わなくて済むし、法律がないよりはあったほうが外に出やすいし、地面に引かれた線である道の上を歩いていれば心細くはない。
もちろん線自体が実情に合わないものだったり、線自体が薄れてくればそれは引き直す必要があるけれど。

そこまで考えてこわいな、と思う。
道とか法レベルでもなく、自分のために何かデザインをするときでさえ、線なんて引かずに済めばなあと思う。線は引かれた瞬間あっち側とこっち側を決めてしまうし、人を嫌でも導いてしまうから。間違った線を引いてしまうことはどんなに恐ろしいことだろうか。

けれど人間は無の中に放り出されて耐えられるほど強くない。真っ白なキャンバスから完成形を掘り出せるほどの想像力は少なくとも私にはない。

だから、震えながら荒野に線を引く。
デザインの最初の一手を、暗い夜にたどっていく光る道を、あなたとわたしが別々であるという境界を、有限のこの手で守るべきものと見捨てざるをえないものの腑分けを。

線を引くことは秩序を制定することであり、大小あれど権力であるなあと思う。権力なんて嫌だし、泥に指を突っ込むのも嫌だけれど、いつか誰かがそれをやらなければ、誰もどこにも行けない。嫌だなと思いながら線を引く。引いた線を誰かがたどっているのに気づいて、やっぱ怖いなと思う。それでも、明日の私も嫌だなって言いながら線を引いてそうだとわかる。

 

 

noubrain.hateblo.jp

 

いつか来る明るい末路について

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うまくいっててもうまくいってなくても、終わりは何にでも訪れる。とか言いながら、よく社の人たちと末路の話をする。(嫌な会社だな!)
未来は怖い。何が起こるかわからないし、わからないものは怖い。
さすがに怖いからと言って何も考えないわけにはいかないので、さまざまな末路を考える。
 
全てが愉快なことになっているのが末路のプランAだ。
プランAでは経営にも仲間にも恵まれていて、でかい自社ビルで夜景を見ながら「あーあ、成金になっちゃった」とか言ってるし、社で作ったものはちょっとだけでも世界を良くしてるし、 私はそこで廊下の植物の配置を気にしてガタガタやったり生ハムを原木からギコギコ切ったりしていて、新入社員に「あの人だれ?用務員?」って言われ、上司はそいつを「あの人社長だよ……?」ってたしなめているみたいなのを想像したりする。
 
けれどそれと同じ重さでプランBというのも存在していて、そっちでは私はたった一人だ。
港区で捨てられたゴミを横取りしてフリマアプリとかで売って暮らしている。
私に金のなかった頃は、拾った燃えないゴミを修理したり磨いたりして家具を揃えていた。その時は多少は情けない気もしたけれど、いまの自分であれば悲しくもなんともないだろうと思う。
 
私にとっては未来があるということ自体が怖い。
10年後の話なんてされたってヘラヘラと「そんなこと言ったって生きてるかすらわからんぜ」と笑ってしまう。
生きてる予定も死んでる予定もないのだから、プランAもプランBもなんの現実味もないという点では同じで、冗談めかさずには口にも出せない。自分に未来があると思うな。未来がわからないことは当然のことであって、それは悲しむことでも辛く思うことでもない。
 
軽率に他者と将来を約束したりする周囲の友人たちのことを羨ましく思いながらも、わからないことをあたかも保証できてるかのように話すのは愚かしさなのではないか? と疑っていた。
けれど、気づいてしまった。
みんな、未来がわからないことぐらいわかってて、それでも「やってる」んだよ。
 
やってる奴らに比べれば私のノーフューチャー志向なんて希望でも絶望ですらもなく、思考停止を隠しておくための気休めに過ぎない。
 
けれど、また冗談めかしてプランBの話をしていたとき、社員の庭石氏がこう言った。
「副社長と君でゴミ拾うことになっても、私がいればきっと楽しい感じになるよ」と。
「さすがにそこまでついてこなくてもいいよ、あとしれっと副社長巻き込まないであげて」と笑ってしまったのだけど、恐ろしいことを言うなあ!とも思った。
私にとっては未来の話は全て等しくほら話であるはずだったのに、真面目に返されてしまったことで、うっそぴょんと逃げられたはずの話は急に現実味を帯びてきてしまった。
 
本当の本当に私に未来なんてあるのか? わからない未来があるということは、未来が無いということより恐ろしいと言うのに?
 
庭石氏が私の未来に灯したのは呪いだ。その明るさで自分の軽薄な生は重さを得てしまった。
けれどもそれは生が続くとしたらいつかは向き合わなければいけないはずの重さで、少なくともどのプランでも私は一人ではないようだった。
 
案外人はこうして未来を呪いで灯されて生き延びるのかもしれない。気は重いね、でもまあやっていくよ、それは仕方のないことなんだ。

社会はマジでヤバイと思ってるけど会社作ります

 書いた人

 とりいめぐみ

 2019年4月1日に株式会社Xemonoを設立しました。
 犬と電柱と短歌が好き。

 Q なぜ会社を作ろうと?

 社会不適合者って言い方があるじゃないですか。
 でも不思議な言葉ですよね。まるで社会適合者がいるみたいだ。いるのか?

 ニーチェがこういうことを言っています。

まだ人の足踏み入れたことのない幾千という小みちがある。幾千という健康の種類、隠れた生の小島がある。人間と人間の住む大地は、いまだに汲み尽くされず、発見しつくされていない」(氷上英廣 訳 『ツァラトゥストラはこう言った』(上)岩波文庫 pp.130 ) 

 私はこれを本当のことだと思った。今でも信じている。世界にあるのはたった一つの健康だけでなく、幾千の健康だと。人はこの幾千の健康についてよく考えた方がいい。

 どういうことか?
 この世界には複数の社会がありますね。たった1つの社会ではなく、複数の社会が。国によって制度とか文化とか全然違うし、同じ国の学校に居ても運動部と文化部とではまた全然違う雰囲気がある。
 それぞれの人間集団はそれぞれの社会を持っているわけですが、そこでもたった一つの社会適合でなく複数の社会適合がある。
文化部の中にも取りまとめ役が居たり、喋るのが大好きなやつが居たり、あんまり喋らないけど楽しそうにしてるやつが居たり。
 様々な方法でワイワイもしくはギスギスとやっているわけです。

 別に社会適合してたら健康というわけでもないし、孤独であるという健康もあるのだけど、基本的には然るべきところに相性のいい人間たちが集まるのは良いことだと考えています。
 集まると一人ではできないことができることがあるし、たとえ本当に面白いことはたった一人の狂気によって醸成されるものだとしても、それを見せ合う仲間が居ることは狂気と共存するための力になるかもしれないから。

 本題に戻ります。私は傍から見ると、いま主流になっている「社会」に適合できてなかったかもしれないけれど、それでも自分が欠陥品だとか健康ではないとは思ってなかったんですよ。
 なぜならこの世には幾千の健康があると信じているので。

 会社を作った理由もそれで、目指しているのは幾千個目の健康があることを証立てるためです。
 1000種類の社会がある世界より1001種類の社会がある世界のほうがまだ良いと思うから。

 なので、会社の方針としては1001種類目の健康をやるため、死なないために集まって協力をし、ものを考える。

 いまの制度は資本主義(好き嫌いが分かれる単語だ)なので、豊かであればアナザー健康でも生きていけるからね。


Q 具体的にどんな仕事をするの?

 言いたいことが伝わる良いウェブサイトを作ったり、使いやすいアプリのデザインを考えたりする仕事をします。
 使いやすいツールを使って人間と機械を仲良くさせることは世界をマシにする方向に行くと信じているし、インターネットを耕すということにも繋がるんじゃないかな。

 デザインはただ単に見た目を整えるという意味だけじゃなく、情報が的確に伝わってくれるよう設計するという側面もあるんですが、ゆくゆくはそのちょっと広めの意味でのデザインもめちゃくちゃ考えたいし、いつかは出版もやりたい。
 出版は紙か電子か、という話だけでなく、人に言葉や概念を届けに行く経路を設計する、という風に捉えられるとまだ何かあるんじゃないかなーと思っていますが考え中。


Q 社会を変えようとしている?

 いつだって社会は変わりつつあるので、そこで大玉をひと押しぐらいしてもいいかなって。
 大玉自体を増やせるともっといい。


Q 会社をやった先に何が見たいの?

 聡明さゆえに社会に苦しんでいる人間が世の中にはいっぱいいるんですが、そういうやつらが新しい概念を生み出すところが見たい。
 だから会社名はXemonoと書いて曲者だし、私はそういう君たちのための会社をやりたい。資本主義は私やわれわれに任せて君たちは先に行ってくれ、そして考え抜いた先の景色を私にも見せてほしい。小説でも哲学でも短歌でも評論でもなんでもいいからさ、言葉じゃなくてもデザインやダンスや歌でも。

 そのために会社を使って色々あつらえるつもりです。創作支援システムを作ったり、困ってる人を雇ったり、作ったものを公開するといいことが起こる場を設けたりね。人間には人生が行き詰まることが割とあるんですが、安心して困ることができる世界の一助になれればいいと思っています。


Q 応援したくなってきたけどどうすればいい?

 とりあえず今はウェブデザインやアプリデザインの仕事をください。めっちゃ真剣にあなたの話を聞きに行って、あなたの見たいものを作ります。いい仕事するよ。

  あ、あと興味ある人はお気軽に下のツイッターとかから声かけてください。一緒に何かできるということもあると思うので。


とりいが作った会社はこれ

 

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