引いた線に守られる(デザイン会社の社長業について)
今までいくつもフライヤーやウェブサイトなどのデザインを作ってきた。
けれどもはじめの一手はいつも心細い。
頭の中でどんなものを作りたいかの解像度を上げていって、それを写し取るように実現するタイプの絵描きやデザイナーは居るけれど、私はそうではない。脳が狭くてそんな芸当はできないのだ。
頭の中で風景を描くには、私の脳はあまりにも狭すぎる。口から長い文章が出てくる人のこととかどんな脳やねんと思って見ている。
ヘブライの神話にバハムートという巨大な魚が出てくるのだけど、バハムートはあまりに巨大なため、こちらに向かって泳いで来るのを見ていると、尻尾を見る頃には頭がどんなだったか忘れてしまうという。私にとっては喋るということ自体がそんな風なものに思える。
自分が喋り終える頃には、最初に何を言っていたかがわからなくなってしまうので、口から整合性のある長文が出てこないのだ。フロッピー時代並の脳のメモリである。
万事がそんな感じで、完成形の解像度を上げるのはこの狭い脳には困難過ぎる。
じゃあどうやって物事を完成まで持っていくのか。まず紙に線を引きます。
紙は外部記憶だ。頭の中に収めきれないようなことでも、紙に線があれば次の手が考えられる。
なにか線が引いてあれば次の線のことが想像できる。次の線が引ければまた次の線も。
そうしていると、自分の引いた線に守られているんじゃないかと考える。
そして思う、人間はずっと人間の引いた線に守られてきたんじゃないかと。
道だってそうだし、土地の境界だってそうだし、法だってそうだ。
古代ギリシアではもっとも重い罪は土地と土地とを区切る境界石を動かすことだったらしい。境界石を動かした人間はホモ・サケルと呼ばれる存在にされて、法の外に置かれてしまったという。法の外に居るので殺されても奪われても誰も加害者を裁いてくれない。
法律とは世界に引かれた有罪と無罪の間の境界で、その境界を無視するものは引いた線に守られないということかもしれなかった。
線が見えてさえいればなにもないよりは遠くまでいける。
国境があればその内側では争わなくて済むし、法律がないよりはあったほうが外に出やすいし、地面に引かれた線である道の上を歩いていれば心細くはない。
もちろん線自体が実情に合わないものだったり、線自体が薄れてくればそれは引き直す必要があるけれど。
そこまで考えてこわいな、と思う。
道とか法レベルでもなく、自分のために何かデザインをするときでさえ、線なんて引かずに済めばなあと思う。線は引かれた瞬間あっち側とこっち側を決めてしまうし、人を嫌でも導いてしまうから。間違った線を引いてしまうことはどんなに恐ろしいことだろうか。
けれど人間は無の中に放り出されて耐えられるほど強くない。真っ白なキャンバスから完成形を掘り出せるほどの想像力は少なくとも私にはない。
だから、震えながら荒野に線を引く。
デザインの最初の一手を、暗い夜にたどっていく光る道を、あなたとわたしが別々であるという境界を、有限のこの手で守るべきものと見捨てざるをえないものの腑分けを。
線を引くことは秩序を制定することであり、大小あれど権力であるなあと思う。権力なんて嫌だし、泥に指を突っ込むのも嫌だけれど、いつか誰かがそれをやらなければ、誰もどこにも行けない。嫌だなと思いながら線を引く。引いた線を誰かがたどっているのに気づいて、やっぱ怖いなと思う。それでも、明日の私も嫌だなって言いながら線を引いてそうだとわかる。