知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

人生はシミュレーションで表せるか?という話をふっかけられた話

ある飲み会の席で、あるいけすかない奴が(Aと呼ぼう)、人生は0と1で表せるかと議論をふっかけてきた。 そのときはつい乗ってしまって、表せない側に立ってやいのやいのやってしまったが、多分それに乗っかる時点で、私はAの用意した枠組みのようなものに乗ってしまっていたのだろう。

人生は0と1で表せるか、という問いは、人生は情報か、パソコン上のシミュレーションで表せるのか、ということだろう。 もしかするとAは、シミュレーションで表せられるようなものには、なんら神秘的な価値もないし、意味もないんじゃないかと思っていたかもしれない。やいのやいのの席では私もそう思ってはいたかもしれない。

しかし、本当にそうなんだろうか。我々がたとえ生命ですらなく、何かの機械だったとして、もしそうだといまわかったら、我々が大事にしている何かが失われてしまうのだろうか。

本当に?

結論から先に言うと、生命や人間がDNA製の機械でしかなかろうと、シミュレーション上の存在であろうと、それで何かを失っているかというとそんなことはないと思う。それで何か大切なものが大切でなくされたような気分になるのなら、そのことよりもそう言うことで何かを奪おうとする奴の方を警戒したほうがいい。物質だって充分に崇高だし、たとえ人間がハードウェアでしかなくても、われわれは何も失わない。

コオロギの価値について

最近コオロギを飼っていて、そいつらはトカゲの餌なので必ずいつかトカゲに食べられてしまう。どれだけたくさんうぞうぞ動いたり跳ねまわったりしていても、餌として殖やされてしまったのでそれは仕方がない。コオロギは恐ろしいほど機械に似ていて、恐ろしいほど生きていようとしたがる。さすが地球一繁栄している種類の生き物だけあって、その生命力ってやつはものすごいのだ。

まず。トカゲに食べさせるためにピンセットでコオロギを捕まえるのだが、その立派な後ろ足をつかむと、躊躇なくそれを捨てる。一番大きくて、なくなれば二度と跳ねられなくなる足を、生きるためなら何の躊躇もなく自ら折って捨ててしまう。胴体をつかむと、あの外骨格の硬そうな身体をぐんにゃり曲げてピンセットをかじる。餌が少なくなるとすぐ共食いをする。成熟した途端リンリンと大声で鳴く。トカゲの口にはいってもモゾモゾし続けている。食べられている間も諦めていないかもしれない。本当に恐ろしい。

コオロギたちはきっと、死に近づく以外の苦痛を持たないのだろうし、絶望もしないんだろうと思う。すぐ絶望したり、名誉のために苦しんだり殺しあったりする人間とは大違いだ。生命のバリエーションというものに驚きもするが、人間も苦痛が大きすぎると多分虫に近づいてくるのかもしれない。それは別によくて。

コオロギを見ていると、生命というものはもともと生を愛するようにできていて、普段はそれ以外考えてはいないのだろうと思う。その生命のバリエーションの中にこんな意識が芽生えてしまったことが、ちょっとすごすぎるように思う。

多分ちょっと頑張れば、プラケースの中のコオロギじみた動きをするものをシミュレーションで作ることだってできるだろう。そのシミュレーションの中ではコオロギはうぞうぞ動いたりナワバリを主張しあったり後ろ足より生命を優先したりするのだろう。そのコオロギと本当のコオロギには違いはあるかというと、実際ある。物質のコオロギは物質のコオロギだし今日もうちのトカゲを養ってくれる。だが、シミュレーションのコオロギもシミュレーションのトカゲを養ってくれるんじゃないだろうか。食べさえしなければどっちのコオロギも見て楽しむこともできる。コオロギが生存機械じみているからといって、意味も価値もないのかというとそんなことはない。コオロギはコオロギだから、良い。

ハトのダンスと宗教について

行動分析学入門

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行動分析学という学問があって、これは心理学から派生した学問なのだけど、私はその理論に異常な風通しのよさを感じてしまう。この行動分析学はざっくり言うと、人がある行動をするかしないかは、前にその行動をした時にどんなことが起こったかで決まる、ということだ。前におにぎりを食べた時にお腹がいっぱいになったから、また次もおにぎりを食べるし、前に教室で騒いだら周りが注目してくれたから教室で騒ぐ。訓練されたネズミは前に餌がもらえたからレバーを押す。前にある人と映画を見たら楽しかったので、また同じ人と映画を見る。

この学問の風通しの良さは、その心理の内面に踏み込まないところにある。ネズミは餌がほしいからレバーを押したのではなく、ただ前に押した時に餌が出たからそうしたのだ。教室で騒ぐ子は親に愛されなくてさびしくてそうしているとは言わず、ただ単に前に騒いだ時にいいことがあったのでそうしたのだ。

これの本に載っていた事例で、鳩のダンスという話がある。 鳩がケージの中に居る。ある時間に、突然ベルが鳴って餌がころりと出てくる。その後も、鳩の行動とは関係なく、ランダムに突然ベルが鳴って餌が出ることを繰り返す。そうやって訓練したハトは、どのように振る舞うだろう?

なんと、ダンスのような動きをしはじめるのだ。

前に餌が出た時の動きや、首のかしげ具合を繰り返せば、また餌が出るかもしれない。ハトは餌が出た直前の動きを強調し、繰り返す。そこに意味があろうとなかろうと。完全にランダムなのだから、ハトは何もしなくても餌がもらえるはずだというのに、ハトは踊るのだ。

行動分析学では、このように訓練(強化と呼ぶ)されるのは、ネズミやハトだけではなく、人間も同じようなことをすると考えられている。だとしたら、このようなダンスじみた動きを、我々は自分の生活で多く見てきているのではないか?自分の力でどうにもならないことをどうにかしようとして人々がする奇妙な振舞い。さて、このダンスと宗教との違いは?

人間とその人生について

行動分析学はここには踏み込まない。意味や価値や内面には踏み込まない。

だが知ってしまった自分はどうなる? 人間が信じてきたものはハトのダンスと変わらないとしたら、そんなものに神秘性や価値なんてないんじゃないか? 

いや、ある。あるといえるし、そう言わないといけない。*1 ないと思えてしまうのは、文化と物質への愛が足りないだけだ。

人は完全に不合理でわけのわからないことをするし正直やめてほしいときだってあるが、それでも見えないものを愛したりそれに左右されたりすることができる能力が物質の上に乗っかっている時点で激ヤバだし、それだけでも意味でしかない。意識を持って文を書いたりできる時点で生命はヤバい。

たとえ意識ってやつがDNAに駆けずり回されている肉体の、たった一瞬のきらめきだったとしても、人間が本来は機械のようなものなんだとしても、物質でしかなかったはずのものが物質ではない名前とか感情とか空想とか崇高さとかを大事だと思える時点でもう価値で意味でしかないんじゃないかと思う。

ハトのダンスでも別に良いし、本当の意味が空虚であるからこそ、それが続いて、人の正気を支えてしまっているのはもう意味でしかない。

例えば翌日に仕事があるのに話が盛り上がって酒飲んでどうしようもないねえとか話しながらそれでも話してる間はどうしようもなくなくて、そこにしかないような最高なきらめきがあるようで、結局深酒しちゃって明日仕事なのにほんとしょうがねえなあってなっている時、それがシミュレーション上のものであっても最高なものは最高だし、最高な奴にお前はDNA製の機械なんだぞと言ったって機械最高でしょとなるだけだろう。

たった50音しか使わない言語で何かを話すとき、50音しかないからといって何かを失っているかというとそんなことは全く無い。同じように、人間がたとえ機械であってこの世界が0と1で表せるシミュレーションであっても我々は何も失っていないし、失わなくてもいいのだ。

宗教学の名著30 (ちくま新書)

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宗教学面白いからみんなやって。

宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)

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人生の意味について考えたくなったらこれを読んで徳の高さについて考える

*1:それこそAのような奴の思うツボだ!