知性がない

なけなしの知性で生き延びていこうな

語彙力を失うオタク、絶句に抵抗する

 これは「虚無とたたかう」アドベントカレンダー8日目の記事です。

 今日は語ることで虚無とたたかう例としてオタクの話をします。

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 なぜオタクは、強大な萌えに遭遇した時、ヤバい……とか無理……とか語彙力を失った、とか言うのだろうか。

 語彙力を失うオタクは結局なにも語ってないじゃないか、というのは大間違いだ。

 語彙力を失うオタクは「語彙力を失った」と発話することで、いかに大きな感情が襲ってきたかを示しているのである。

 本当に全ての語彙力を失ったなら語彙とかいう語彙もなくなるはずで、そのときは、オタクは単に絶句して、言葉が戻ってくるまで待たなければならない。

 「語彙力を失った」という言葉は、いわば絶句と語りの間のセーフティーネットとして機能しているのだ。

 そして重要なのは、これはどこかの人間(や猫やぬいぐるみやソーシャルメディアのタイムライン)に向かって発話されることだ。何もないところに向かって話し続けることに耐えられる人はあまり居ない。(耐えられるのはわりと特殊技能で、わりと役に立つ。授業とかの)

 誰かが「わかる無理」とか返すことで、オタクは圧倒的な現実、それに相対した自己の虚ろさから言語の世界に戻って来れる。そしてまた次の萌えを語ることができる。

 明日は@kdxuと対談をする予定です。お楽しみに。

2017/12/11 対談はしなかったけど書きました

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虚無とたたかう——言語の2つの武器

 これは「虚無とたたかう」アドベントカレンダー7日目の記事です。
 ここいらでちょっと、これまで話してきたことを軽くまとめたあと、虚無とたたかうための武器について話してみたい。

前回までのまとめ

 虚無とは人生がつらい要因のひとつだ。その根っこは人間の時制の理解から来ている。そしてこの虚無は、人生を定められたレールに載せたり人生を程よく繰り返しにする(音楽化する)ことで和らげることができる。
 つまり、虚無とは不安のことで、虚無とたたかうとは不安と折り合いをつけるということだ。
 この不安というのは、未来に何が起こるかわからないということから生まれる。
 人生のレールに乗ったら虚無から逃げられる、というのは、節目を利用して人生を予測可能にするということだ。
 逃げることは悪いことではない。レールに乗ることも悪くないしレールから逃げることも悪くない。

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言語によってもたらされた不安に言語によって対抗する

 で、今日するのは、この虚無とたたかうためにどうできるかという話だ。
 慣習の押し付ける結婚や出産などのレールには乗ってやらないことにして、それでいて犬にもなれないとしたら、どう虚無に対抗すればよいだろう?

 言語によってもたらされた不安には、言語によって対抗するしかない。

 どういうことか?
 不安とは、そもそも人間が未来を憂えることができる程度には未来を理解しているのに、その未来の実態が「わからない」ことから出てきていた。

 この「わからない」ことへの恐怖に、人類は2つの方法で対処してきた。

 神話、どちらも古くから伝わる重要な言語の機能だ。


 暦は数値と慣習を駆使して未来を予測可能にする試みだし、神話はおそろしい現象を神というキャラクターによって擬人化し、性質を記述し、人々の間で語り合うことができるものにする。


 そんなの昔話だろというかもしれないが、現代でもそう名指して言わないだけで立派にやっている。
 季節の節目としての暦の力は弱くなってきたにせよ、クリスマスとか正月とか結婚式やら葬式やらは厳然と存在するし、人生を予測可能にすると言う点では、前述したレールの話にも通じるものがある。
 よく話題になる現代用語、例えばIoTとかシンギュラリティとかいう言葉は、私には不安を和らげるための神話に見える。未来を虚無ではなく、名前の付いた、備えるべき脅威のあるものに変えることで、対処可能なものにしているのだ。
 そしてこの暦と神話の2つが合わさると祭りになる、けどこれはちょっと脱線だな。


 これは私の個人的な話になるんだけど、中学高校時代、私はとても行事の多い学校に通っていた。全ての日が絶え間なく行事とその準備で埋められていて、運動場からよく見えるところには、行事まであと○○日と常にカウントダウンが張り出されていた。中間試験すらカウントダウンされていた。

 そしてその行事への準備として、行事についての資料を毎度読み込む時間があった。(神話だ!)

 当時の私はなぜそんなにも行事をやるのかわからなかったのだが、いまならわかる。あれは虚無と戦っていたのだ。中高生なんてすぐ虚無になるのに学校がそんなに荒れていなかったのは、行事がきちんと機能していたからなのだろう。先のハレの日を提示することは、不安をおさえることにつながる。

 ここでも暦と神話が大きな役割を果たしていたわけだ。

まとめ

 つまりはわれわれが虚無とたたかうにはどうすればいいか。
 もうわれわれは言語を手にしてしまったのだし、言語を使っていくしかもうない。暦と神話と2つ機能があるが、その中でも、神話化は気軽に使えることだろう。
 おそろしい未来を耐えられるものにするためには、名付けて、手なづけて、お話にしてしまうことだ。
 神経症であったハンナ・Oがその治療の過程で初期の精神分析家ブロイアーと見出した「お話し療法」のように、言語によって虚無に対抗するのだ。 

心的外傷と回復 〈増補版〉

心的外傷と回復 〈増補版〉

 

 この本の23ページにハンナ・Oとブロイアーのお話し療法の話が触れられています。

 

神話の変奏 (叢書・ウニベルシタス)

神話の変奏 (叢書・ウニベルシタス)

 

今回は昔これを読んだ記憶を元に書きました。この本高いよ。 


 次回の「虚無とたたかう」アドベントカレンダーは未定ですが、神話化についてもう少し踏み込んだ話をしたいです。お楽しみに。

2017/12/11 書いた

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マリオは跳んでるだけで面白い——人生のUXをサイコーにする

 この記事は「虚無とたたかう」アドベントカレンダー6日目の記事です。

 今日はマリオの話をする。

マリオに虚無はあるか? 

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 マリオに虚無はあるだろうか。

 たぶん、ない。少なくとも、我々のような虚無はもたない。

 なぜなら戦う相手が居て、探検すべき道があり、そしてよく跳ねるからだ。
 そもそもマリオはジャンプするだけで面白い音が出るんだ。そんなおじさんに虚無なんてあると思うか。眠れない夜が、洗えない皿が、無力が、焦りが、あると思うか。

 マリオはすごい

 マリオはゲーム界に最高のUX(ユーザーエクスペリメンス)をもたらした。
 なぜあんな小太りのヒゲオヤジがこんなに愛されているのか。
 あれは、あのジャンプと変な音が愛されているのだ。マリオ自体に愛着を感じるのは難しくとも、マリオを通して味わうあの世界との感触は愛するに足りる。
 
 我々は犬にはなれない(前の記事参照)。マリオのように跳ぶこともできない。
 しかしマリオのやり方で虚無とたたかうことはできる。
 
 マリオのゲームはやたらテンポがいい。調整され抜いている。
 マリオを楽しく遊ぶ時、ここにテンポという音楽用語が使われるのは偶然ではない。
 
 我々は愉快であるとき、そこには何らかのリズムがあり、音楽ができているからだ。 

音楽となれ!

 ナワバリを示す太鼓の音、遠くの仲間の遠吠え、求愛のさえずり。音楽は生存には欠かせない。
 音のない音楽もありうる。
 一定のパターン、リズム、クールな繰り返し。ドゥルーズリトルネロとか言ったけどそんなもんだ。
 
 マリオは変な音を出しながら跳ぶことで世界を音楽に変えた。我々もそうできる。皿を洗おう、音楽家なら簡単なことだ。洗って置いて流しての繰り返しに音楽を見出そう。世界を手触りの良いものに作り変えて、楽しく生存できたらこっちのもんだ。生活をやるんだ。毎日似たような時間に起きて似たような時間に寝るんだ。飯もなるべく食べよう。
 
 不安や虚無とたたかう最も強い武器は、自らの生をひとつの音楽にすることだ。
 
 人生のユーザーエクスペリエンスをサイコーにしろ。
 
 歌えなくても音楽はできる、マリオのように世界と触れあえ。虚無自体はなくせなくとも、それでたたかうことはできる。

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

 今日の話を書いていたらこの本を思い出した。読んでいる間は退屈を忘れられる本です。
 
 次回の「虚無とたたかう」アドベントカレンダーは、「詩人の解像度で抵抗する」です。お楽しみに。
 

2017/12/10 予定と変わりましたが書きました

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【鼎談・虚無×人生×健常】就活の時に書かされる抑うつ診断みたいなアレについて


 これは「虚無とたたかう」アドベントカレンダー5日目の記事です。

 今日は虚無と健常と人生の3人の鼎談です。

 

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――今日はお集まりいただきありがとうございます。

健常:
 いやーこの三人が集まって話せる場が来るなんて思いませんでした。

虚無:
 そんなこと言って、いつも一緒にいるじゃないですか笑

 

――さて、今日は「就活の時に書かされる抑うつ診断みたいなアレ」について話してもらいます。人生さんは、何か思うところがおありのようですね。

 

人生:
 ていうかまず就活ってわけわからないですよね。人が人を選ぶっていうのがまず傲慢だし、あれって結局何がしたいのかわからないんですよ。落とすのは落とすのでいいんだけど、理由とか言わないし。

虚無:
 自分の価値を疑っちゃいますよね。でも人生さんそういうの得意じゃないんですか。

人生:
 健常さんなら難なくこなせそうですけど。私は嘘が吐けないので苦労しますね。「就活の時に書かされる抑うつ診断みたいなアレ」って本当のこと書いたら落ちるじゃないですか。つらいのがバレちゃいけないんですよ。

健常:
 そんなことないよ〜。普通にやってたら大丈夫だって。人生ちゃん頑張ってるし。合わなかっただけだよ。人生ちゃんは、難しく考えすぎなんだよ。
 これはコミュニケーションの問題でさ、価値観が合う人同士で仕事したほうが楽だし生産性も高いんだよ。仕事で一緒になるってことは毎日顔を合わせて毎日頼み事をしあうってことだから。そういうテストでふるい落とされるってことは長期的に見たら幸せなんだから。

虚無:
 逆に言うと仕事ってのは成果を出すという共通の意識があって、その上にならどんな多様性も花開くことができるというわけだね。

人生:
 健常さんはそう言うけれど、これは思想の問題ではないんですか。結局健常さんに似てる人ばっかりが仕事を見つけていくということですよね。

虚無:
 そりゃ、健常さんに似た人は元気で仕事もできるからね。

人生:
 健常さんみたいにはなれない気がしますよ。

健常:
 私だって何も考えずにこうやってるわけじゃないよ、仕事にやる気があるように振る舞うのも一種のパフォーマンスだよ、やってるうちに馴染んでくるって。それに仕事無しで生活するよりは、アリで生活したほうがいいじゃない。

人生:
 それができない人が悪いみたいに言わないでくださいよ。健常さんはハードルが高いなあ。

健常:
 人生ちゃんってけっこうひねくれてるね?笑 あんま考えないで済むならそれが一番いいって。

人生:
 まさか健常さん、あなたも虚無だったんですか。

虚無:
 君は自分が虚無じゃないとでも思っていたのかい。

健常:
 難しく考え過ぎだって。

 

次回の「虚無とたたかう」アドベントカレンダーは予定を飛ばして「マリオは跳んでるだけで面白いーー人生のUIをマシにする」を予定しています。

 

2017/12/09 書きました

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異性愛者を笑えるかーー人生のレールについての考察

 この記事は「虚無とたたかう」アドベントカレンダー4日目の記事です。

 今日は人生におけるレールの話をします。

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人生というレールプレイングゲーム

 ご存知の通り人生にはレールが存在する。冠婚葬祭ってやつだ。冠は成人、婚は結婚、葬は葬式、祭は死後の祀り。

 そこにどれだけ乗ってるかで人生は評価される。いい学校に通ってるか、就職してるか、結婚は、子供は……? レールと年齢の一致度で幸せまで見積もられるわけだ。

 このレールは虚無とたたかう古くからの知恵だ。人生で役割を与えられているうちはーー母、父、子、会社員ーー誰かに必要とされているうちは、勇敢に虚無に立ち向かうことができる。

 定年後に急に人が老け込むのは、役割を免じられて人生の虚無と向き合うことになるからではないだろうか?

 与えられた役割を果たすのは虚無から逃げる最もよい方法だ。逃げるのは恥ではないし。逃げ続ければ苦しむより寿命が先に来る。

レールはクソ

 レールは乗っている人には安心を与え、同時にそこに乗らない(乗れない)人は排除することで不安を与える。いや、むしろ排除をすることで安心を作り出している。

 順調にレールに乗っていそうな人も、いつ病気や怪我で落ちるかわからないし、いつ遁走したくなるかもわからない。このレールは不安によって人を支配しているのだ。

 ついでに言うと男性異性愛者用のレールはやたらしっかりしてる割に、女性用のレールはガタガタだったりする。

 ひどいもんだなあ!

 けれど一人が腹を立てたところでレール自体を引っこ抜くことはできないし、そもそもレールなしで人は暮らせるんだろうか。それはどんな人間もたった一人で虚無とたたかうようになることだ。

レールがあるからレールに乗る。そいつを誰が責められる?

 レールは人生に対する批判能力を鈍らせるためのものではあるけれど、それでもよく考えて自ら乗るやつもいるだろう。

 たぶん人が想像する以上に、「戦略的に異性愛者をやっている」人は多い。虚無とたたかうためにそうしている。周囲の圧力のためにそうしていたり、自らの人生の不安とたたかうためにそうしていたりする。そんな奴を笑えるか、虚無とたたかうよすがであるレールを奪えるのか。

 こういう人が最もレール自体を変えることには厳しい。無理強いされた選択肢にしろ、選びとってそうしたんだから。そりゃレールのこと守るよ。

 私はそういうやつを笑えないし、レール無しで人が虚無に耐えられるとは思えない。

複数のレール、たった一人でないわれわれ

 ただいい話があって、このレールは絶対的なものではないということだ。ある制度の中にいると、ただ一つの正しい制度があるように錯覚してしまうけど、世界や歴史を見れば無数の制度、無数のレールが存在することがわかる。

 だからまだマシなレールのためにやって行くことも不可能ではなく、野望のあるひとは好きに虚無とたたかえる。必要なのはたった一人で虚無に立ち向かうことでなく、ついでに誰かの新しい轍になることだ。

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 今回の記事はこれを意識しつつ書きました。

 私たちが持っている、そうした幸せのイメージは、ときとして、いろいろなかたちで、それが得られない人びとへの暴力となる。たとえば、それを信じたせいで、そこから道が外れてしまったときには、もう対処できないほど手遅れになっていることがある。

 しかし、それとは別に、もっと単純に、そうしたイメージ自体がひとを傷つけることがある(岸政彦『断片的なものの社会学』108ページ)

 次回の「虚無とたたかう」アドベントカレンダーは「健常というチープな祈り」を予定しています。話が重くなってきたので次回こそ適当に笑える感じにしたい。

2017/12/08 書きました

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