虚無とたたかう——言語の2つの武器
これは「虚無とたたかう」アドベントカレンダー7日目の記事です。
ここいらでちょっと、これまで話してきたことを軽くまとめたあと、虚無とたたかうための武器について話してみたい。
前回までのまとめ
虚無とは人生がつらい要因のひとつだ。その根っこは人間の時制の理解から来ている。そしてこの虚無は、人生を定められたレールに載せたり、人生を程よく繰り返しにする(音楽化する)ことで和らげることができる。
つまり、虚無とは不安のことで、虚無とたたかうとは不安と折り合いをつけるということだ。
この不安というのは、未来に何が起こるかわからないということから生まれる。
人生のレールに乗ったら虚無から逃げられる、というのは、節目を利用して人生を予測可能にするということだ。
逃げることは悪いことではない。レールに乗ることも悪くないしレールから逃げることも悪くない。
言語によってもたらされた不安に言語によって対抗する
で、今日するのは、この虚無とたたかうためにどうできるかという話だ。
慣習の押し付ける結婚や出産などのレールには乗ってやらないことにして、それでいて犬にもなれないとしたら、どう虚無に対抗すればよいだろう?
言語によってもたらされた不安には、言語によって対抗するしかない。
どういうことか?
不安とは、そもそも人間が未来を憂えることができる程度には未来を理解しているのに、その未来の実態が「わからない」ことから出てきていた。
この「わからない」ことへの恐怖に、人類は2つの方法で対処してきた。
暦と神話、どちらも古くから伝わる重要な言語の機能だ。
暦は数値と慣習を駆使して未来を予測可能にする試みだし、神話はおそろしい現象を神というキャラクターによって擬人化し、性質を記述し、人々の間で語り合うことができるものにする。
そんなの昔話だろというかもしれないが、現代でもそう名指して言わないだけで立派にやっている。
季節の節目としての暦の力は弱くなってきたにせよ、クリスマスとか正月とか結婚式やら葬式やらは厳然と存在するし、人生を予測可能にすると言う点では、前述したレールの話にも通じるものがある。
よく話題になる現代用語、例えばIoTとかシンギュラリティとかいう言葉は、私には不安を和らげるための神話に見える。未来を虚無ではなく、名前の付いた、備えるべき脅威のあるものに変えることで、対処可能なものにしているのだ。
そしてこの暦と神話の2つが合わさると祭りになる、けどこれはちょっと脱線だな。
これは私の個人的な話になるんだけど、中学高校時代、私はとても行事の多い学校に通っていた。全ての日が絶え間なく行事とその準備で埋められていて、運動場からよく見えるところには、行事まであと○○日と常にカウントダウンが張り出されていた。中間試験すらカウントダウンされていた。
そしてその行事への準備として、行事についての資料を毎度読み込む時間があった。(神話だ!)
当時の私はなぜそんなにも行事をやるのかわからなかったのだが、いまならわかる。あれは虚無と戦っていたのだ。中高生なんてすぐ虚無になるのに学校がそんなに荒れていなかったのは、行事がきちんと機能していたからなのだろう。先のハレの日を提示することは、不安をおさえることにつながる。
ここでも暦と神話が大きな役割を果たしていたわけだ。
まとめ
つまりはわれわれが虚無とたたかうにはどうすればいいか。
もうわれわれは言語を手にしてしまったのだし、言語を使っていくしかもうない。暦と神話と2つ機能があるが、その中でも、神話化は気軽に使えることだろう。
おそろしい未来を耐えられるものにするためには、名付けて、手なづけて、お話にしてしまうことだ。
神経症であったハンナ・Oがその治療の過程で初期の精神分析家ブロイアーと見出した「お話し療法」のように、言語によって虚無に対抗するのだ。
この本の23ページにハンナ・Oとブロイアーのお話し療法の話が触れられています。
今回は昔これを読んだ記憶を元に書きました。この本高いよ。
次回の「虚無とたたかう」アドベントカレンダーは未定ですが、神話化についてもう少し踏み込んだ話をしたいです。お楽しみに。
2017/12/11 書いた