「わたし」も「ぼく」も選べなくて一人称無しで暮らしていた
つい2年ほど前まで、「ぼく」とか「わたし」のような言葉、一人称ってやつを使わないで暮らしていた。自我に重大な問題があったわけではなく(たぶん)、ただ単に、すでにある一人称の中に気に入るやつがなかったのだ。
一人称を使わないで過ごすと、いいことも悪いこともあったが、誰かの何かの参考になるかもしれない。
その時と今とで変わったことについて書く。
日本語一人称問題
日本語では、自分のことを「わたし」とか「ぼく」とか「わがはい」とか「おれさま」とか呼ぶことになっている。たくさんある中から好きな物を選ぶことができるとも言えるが、選ばされていると言った方が近い。
状況によって「おれ」を「ぼく」と「わたし」と数種類の一人称を使い分ける人がいるように、ただ単にどれか選ぶといっても、そこには複雑ないろいろがついて回ってしまう。
この社会では、一人称を選ぶということはある制度に絡め取られてしまうということだ。 英語のIのように選択肢がなければまだマシだが、日本語ではそうはいかない。
一人称を選ぶことは自分の人格を選ぶことであり、キャラを選んでしまうことでもある。 それが男用とか女用とか丁寧とか丁寧じゃないとか常識的とかそうではないとかラベルがついているものだから、本当にたちが悪い。
Xジェンダーで居たい人には厳しい世の中だ。
そんなにケッタイなものに自分の言葉を縛られたくなくて、選ばないということを選んで20年ほど生きてきた。
自分のことを表す新しい言葉を作れたらよかったのだが、それはあまりうまくいかなかった。バンクーバーの教育委員会ではhe,sheをやめてxe使おうぜみたいになっているけどちゃんと流行っているかはよくわからない。 *1
幼稚園のころから定まらなかったので、結局そのまま一人称なしで暮らしてしまっていた。
一人称は別になくても生きていける(困りはする)
結局2年前に一人称を使いはじめるまで、ずっとそれなしで生活していた。
なるべく一人称を使わずに話すのは、別に慣れたくもないと思うが、慣れれば普通に生活できてしまう。
だいたい会話というものは、何も言わなければ喋っている奴が主語なので、自分の話の場合は「わたし」とか「僕」とかいうものを省略してしまっても通じはする。
この文章もここまで「私は」とか言わずに書いているが、意味不明だっただろうか。たぶん普通に読めてしまったんじゃないか。*2
それでもどうしても使わなければならなくなるときがあって、そういう時は一人称を入れる部分に、こっちは、とか、もごもご、とか言ったりする。
それが当たり前になったりすれば不便はそんなにない。といっても勘の良い人にはちゃんとバレるし、なにそれwwと言われることはあるけれど。
何かを考える時もそんなに不便はなかった気がするが、今考えると息継ぎのやり方を知らずに泳いでいたようなものだと思う。
後述するが、一人称を使わないで生活していると、自分を統一する部分がないので困ってしまう時があるのだ。
一人称がなかったひとの頭の中
自分は多重人格というわけではないけど、当時ものを考えるときは頭のなかで5人ぐらいが適当に喋るみたいな感じでやっていた。
頭のなかで喋っている人には声だけしか用意されていない。ラジオだけで声を知っている人のような感覚で、そこにはあまり違和感はない。
一時期気を病んだ時には、頭の中でわけのわからないことを言う奴とかがいて大変だったりしたが、まあとにかく考えるときは頭のなかに数人いるのが普通だった。そいつらは何種類か居るということだけわかって、決してひとつの声ではない。一度、どんなやつが居るかそれぞれ特定して名前をつけようかと思ったが、あまりうまくいかなかった。多分そんなにはっきりした存在ではなかったんだと思う。
その中の誰も一人称を使わず、身体や他の声に向かって君とかお前とか呼びかけていた。
作者不在の創作キャラ座談会のような感じが近いかもしれない。ただその中のキャラには名前すらついていないし、キャラ立ちも全然してない。すごく口が悪いのとちょっと口が悪いのがいたぐらいだ。脳内会議漫画の『脳内ポイズンベリー』みたいなやつの、キャラが立ってない版みたいな感じだ。この漫画はキャラ立ちがしているから、けっこう自我が安定してそうだと思う。
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メインの「わたし」は居なくて、自分を頭のなかで指したいときはなんとなくわれわれと呼んでいた。
われわれってのは性もないし(重要)ちょっとかっこよくて気に入っていたが、けれど一人称に使うのは神を騙っているみたいだし*3なにせ人に聞かれた時によくないし、自我が余計分裂する気がする。たぶん人の身には耐えられない一人称だったんだと思う。
一人称を使わない人がみんなこうだかは知らないが、名前がついていない存在とずっと暮らしているのは精神的にも不安定だったのかもしれない。
あきらめて一人称を使うまで
それから色々あって、親しい人に考えるってこんなんだよね、みたいな話をしたら、「一人称使おう?」と言われた。「君の精神が不安定なの、きっとそのせいだよ」と言われ、当時とにかく辛かった私は、そのアドバイスに従って、ひとまず自分のことを「わたし」と呼びはじめることにした。
そのとき、やはり何かに負けたのかもしれない。何かを選んでしまったから。
男性性も女性性も押し出したくなかった「わたし」は、比較的中性で汎用性が高いと判断して「わたし」を選んだ。
男性女性で名詞や動詞を変化させる言語よりマシだけど、日本語でもどっちでもない場所に居るのは難しい。
一人称を使い始めた当初は喉につっかえる感じがあったけど、すぐに慣れた。やっぱり喋りやすい。
一人称がある世界の様子
私のことを良く見ている奴の言うことはやっぱりわりと正しくて、一人称を使うと結構世界が違ってくるようになった。
一人称を使っていなくて精神が不安定な人はぜひ試してほしいんだが、一人称を使うのは実は脳に良い。脳に良いというのはちょっと変なのかもしれないが、確実に脳の負荷が減る。脳の負荷が減るということは精神が少し安定するということだ。
というのも、この言語では一人称を使う人間を前提としている。使わないのは縛りプレイをしているようなものだ。
人間は一人称があると自己の拠り所ができるのかもしれない。西洋で哲学が発達したのは、強烈なIとかIchとかが存在したからかもしれないとすら思う。それぐらいすごく楽になった。
どういうことかというと、ここからは自分の話になってしまい申し訳がないし、もっと詳しい人が居たら教えてほしいのだが、一人称を使い始めてから、頭のなかが静かになり明らかに人数が減った。今では頭の中で一人で静かにしていることだってできる。
これを自我が統一したと呼ぶんだろうか。
今までものを考えるときは、大量の声が喧々諤々、君はこうしろああしろと言う*4中から、声が大きい、または気に入った意見のやつを自分の意見にしていたのだが、核となる「わたし」ができたことで、そいつらの意見をまとめる場ができた。議長を立てることで、議論が成立するようになったのだ。
自分のことをわたしと呼び始めるだけで、自分の中にもわたしと呼べる場所ができるとは、言語とは不思議なものだと思う。
船頭多くして船山にのぼるというが、今まではそんな感じだったんだなと、頭が静かになってはじめてわかった。
それによって、それまで全然書けなかった文章というものが書けるようになった。ツイッターのような短文は、どれか一人のつぶやきでいいのでいくらでも書けるのだが、まとまった文章を書くとなると、よく支離滅裂になりがちだった。多分いろんな奴が騒いでいたからだと思う。それが書けるようになったのは、けっこうな驚きだった。
あと人と会話がしやすくなった。会話ではわりとよく意見を求められることがあると思うが、そこでわたしはですねーとか言えるので、いきなり意見から言う必要がない、つまり時間稼ぎができる!
今でも喋るのは別に得意ではないが、少しマシになったんじゃないかと思う。
まとめ: 一人称を用意すると言語との関わり方が変わってくる。
自分のことを頭のなかで君とか呼んでいる人は、一人称をつかうことでちょっと生きやすくなるので是非試して欲しい。
まあクソみたいなわたしとかぼくとかいう選択肢の中からどれかを選びとる必要があるので、それがちょっと辛いかもしれないが、精神の安定は何物にも代えられない。多分もう一人称を使っていない世界に自分の意志では戻ることはないだろう。
巨人の肩に乗ってしまえばもう降りられない。けれども、景色はそんなに悪くないように思う。
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